4.


駅から少し離れた場所に、製菓用品店兼パティスリーのお店がある。
趙雲はここのセーキセットを大層気に入っており、製菓用品の品揃えもよいため、三人でお菓子を作る時の材料は此処で買うことを決めていた。
今日は量の足りなくなったアーモンドパウダーと楽進の怪力で壊れてしまったふるいを買うついでに、毎日お仕事を頑張っている自分へのご褒美に新作のベリーシフォンを食べようといそいそと店内に足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ!」

小さな鈴を鳴らしたような愛らしい声が二つ店内に響いた。
喬姉妹がフリルのふんだんにあしらわれた純白のエプロンを赤とオレンジを基調とした制服に重ねた姿で趙雲を出迎える。
「いらっしゃいませ」
その中に一人だけ見慣れない顔があった。趙雲は足を止め彼の姿に瞬きする。ついこの前まではいなかったはずだ。
「こんにちは。今日からここで働くことになりました陸伯言と申します」
鳶色の髪の青年は趙雲の前に歩み寄ると、にこりと微笑まれ握手を求めた。趙雲は差し出されるがままその手を握ると、流れるような所作で青年は趙雲の手を持ち上げて甲に口付を落とす。
ぶわ、と熱が足元から上がり、頭が真白になる。突然の目の前の光景に理解力が追いついていかなかったのだ。
「あー、悪い趙雲殿、陸遜はアンタに惚れて此処のアルバイトになったんだ」
適当に相手してやってくれ、とひょっこり顔を出して視線で求めたのは店長の呂蒙だ。両手にナイロンの手袋をつけてケーキのデコレーションの真っ最中だったらしい。
ぱくぱくと声にならない叫びを上げて、無理だと目で訴えたものの、サービスするから、と苦い顔でずらしたマスクの向こうから言葉を作られてしまっては諦めるよりない、もとより「サービス」その一言で趙雲の心はいとも簡単に折れていたのだから。
多少驚いたものの真っ直ぐな好意は嫌いではない。
それに子供達もよく自分の頬や唇に口付けしていたではないか。それと同じだ、と趙雲は二三度頷く。
「趙雲殿、今度は私のつくったケーキも食べてくださいね」
帰り際、ちゅ、と音をたてて頬にキスされる。
驚いた顔も可愛いです、と見送られ、でもやはり慣れないな、と趙雲は久しぶりに頬を朱色に染めた。





5.


連休前の平日の夜のこと。
劉備を長兄とする義兄弟とその息子たち、そしてなぜか馬従兄弟がリビングにおのおの好き勝手に休息をとっていた。張苞と馬岱と関兄妹はゲームの対戦に興じており、星彩は鮑三娘と雑誌を眺めている。勝敗に一喜一憂する兄に、時折星彩が兄上五月蝿い、と叱責した。最近の若い女の子が見るような雑誌を前に劉禅も混ざっているのが趙雲には些か気掛かりであったが。
ビール缶を片手にボタン押しが甘い!などと茶々を入れる馬超に帰ってくれないかな、と浴びるように酒を飲む義兄弟と馬超のために肴を作る趙雲はぐったりとしていた。
八時もまわろうかというときである。玄関のチャイムが鳴らされた。
「はーい、」
趙雲がスリッパの音を立てて玄関に小走りに向かう。チェーンを外して鍵を回す。

「お久しぶりです、趙雲殿!」
「姜維!」

来客は趙雲の遠縁である姜伯約であった。
大きく膨らんだスポーツバッグを肩にかけ、カジュアルな服装の青年は趙雲の記憶とは随分と様変わりしていた。それもそのはず、趙雲が最後に姜維と直接会ったのは彼が中学に上がるころである。随分と成長した親類の姿に驚嘆を禁じ得ない。
とりあえず劉備に頼み姜維を招き入れると沢山の視線が二人に注がれる。
「姜伯約と申します、明日から趙雲殿のところに居候させていただくこととなりました」
どよっ、とざわめき立つのと趙雲が驚きの声を上げるのは同時だった。
「姜維、私はそんな話聞いていない」
「はい、始めて言いました」
邪気のない笑顔が返される。今春から大学へ通うこととなった姜維は趙雲の部屋に下宿すると言い出したのだ。きらきらと輝く瞳で見上げられ、子供好きの趙雲は絆され断わることなどできなくなってしまう。
しかし心を鬼に!と家主でもある劉備の方を見れば、そうするといい、趙雲!とウィンクでアイコンタクトされてしまう。
幸運なのか不運なのか、客用布団など寝食に必要なものは一式揃っているはず。
「また賑やかなになるな!」
劉備の嬉々とした声に趙雲は力なく同意したのであった。







6.


「おはようございます」

朝のゴミ出しで顔を合わせた男に、趙雲は何故か近視感を感じた。
寝癖のままなのだろうかと失礼なことを考えながら無意識に髪型に目が行った。
「いつも楽進がお世話になってます」
頭を下げられ、意外に礼儀正しい口調で語られたのは料理仲間の楽進の名前だった。合点がいった。
「いいえ。こちらこそ、お世話になっております。お話は常々、」
彼が楽進のいう「同居人の李曼成」なのだろう。身長は随分と高い細身の男性だ。
「あー、・・・参ったな」
少し照れた表情で笑う。頭を掻く仕草はおそらく癖なのだろう。
自分の不在の間、彼の口から自分のことが語られていることが、恥ずかしくて嬉しいのだろう。そんな満ち足りた笑みだ。
「そういえば、また今週も集まるんですよね、今回は何を作るんですか」
壊滅的だった楽進の料理の腕は、最初の頃に比べて格段に上達している。
「麻辣火鍋です」
「マジですか!?」
昼下がりに作る料理じゃないだろ、という突っ込みは不在である。
「あの…楽進にあんまり辛く作らないようにそれとなく言ってもらっていいですか…」
聊か顔が青ざめている。楽進の腕にかかれば地獄の業火すら簡単に凌駕する真っ赤な料理ができることを危惧してだろうか、それとも、と考えていると、彼は視線を漂わせ小さな声で白状する。
「俺、辛いものってあんまり得意じゃないんです…」
楽進には秘密ですよ、と念を押され趙雲が頷くと明らかに安堵した表情で胸を撫で下ろしている。
「じゃあ、よろしくお願いしますね!」
腕時計を見て慌てて立ち去る後ろ姿に、趙雲は小さく笑った。
今日の出来事を楽進に話したらどんな顔をするだろうか。擡げた悪戯心をぎゅうぎゅうと押し込めながら、早く土曜日にならないかと、指折り数えた。