10.


お料理指南という名目で陸遜が趙雲宅に上がり込むようになって二か月ばかりになろうとしていた時だった。
週に二回、多い時でほぼ日参する陸遜は製菓学校の教科書を持って訪れるときもある。勉学に勤しみながらバイトをし、加えて趙雲に料理を教えるというハードなスケジュールをこなせるのも、若さというものだろうか、と趙雲はスイーツのデコレーションを作りながら、生クリームを泡立てる逞しい腕を羨んだ。
「うわ!」
突然陸遜が叫び声を上げた。趙雲の見ている目の前で自動回転する泡だて器からまだ柔らかいクリームが飛び散ったのである。べっとりと捲った袖口を汚してしまった陸遜に、趙雲は自分のシャツを取りに向かう。その前に洗濯機に入れておいてほしいと言付けて。
「洗濯機は洗面所の隣にありますから!」
自分のでは大きさが合わないかもしれないと危惧した趙雲は後で同居人に訳を話すことにして、大学入学のお祝いに姜維へ贈ったばかりの、彼が一度も袖の通していないシャツを手に陸遜がいるであろう洗濯機の備えているバスルームへ向かった。
「趙雲殿!」
丁度勢いよく飛び出てきた陸遜に背を逸らすこととなった。驚く趙雲に構わず上半身裸のまま、荒々しい声で陸遜は趙雲を問い詰める。
「どういうことですか!」
なんのことだかわからない趙雲の腕を強く引いて陸遜は趙雲を連れ立った。
これです!と陸遜が指さした先には青と緑の二本の歯ブラシ。
陸遜が自分に恋人がいるのではと驚いたのだと受けとった趙雲は、手を横に振る。

「違うんです、陸遜殿、これは――、」
「趙雲殿、どうしたんで、…す、か」

珍しく早く帰宅した姜維の眼前には、見知らぬ男が上半身裸で趙雲に詰め寄っている光景が広がっている。
蝶よ花よと愛でる兄代わりに珍妙奇天烈な虫がついた!と即座に姜維は牙を向く。
この日より二人は近年稀に見る犬猿の仲となるのだが、趙雲は勿論気づかなかったりするのである。




11.


第三土曜日の午後。
キッチンに二人並んでその日はダージリンクッキーを作っていた。
ホウ統は旦那(自称)の通院に付き添って今日は欠席であった。
連絡を聞くに、今日は奥歯の虫歯を削るので怖いからついてきて手を握っていてほしいと泣きつかれたとのことである。電話越しに士元!とわんわん泣く声は旦那のものであったのかと趙雲は深くは追及せずに電話を切った。
穏やかな昼下がりである。

「そういえば趙雲殿の首筋の刺青はとても綺麗ですね、噂以上です」

唐突に振って落ちた隕石に趙雲は固まった。どういうことか、と目は如実に楽進に伝えている。最初驚愕の表情で見下ろされきょとん、としていた楽進であったが言葉が足らなかったと得心して、にこやかに話し始めた。
「「昇龍」といったら自分達の仲間内ではとても有名でしたよ、首に緑とも青ともつかない鮮やかな色の龍の彫り物をした、年は若いが非常に頭の切れる男」
楽進は嬉々と謳うように言葉を続ける。
「やくざものでも族でもなく、けれども堅気でもない、そんな人だと。私の憧れでした、…いえ、いまも」
少し照れくさそうに楽進ははにかんだ。腕や頬に色濃く残る傷はその名残なのだと指し示した。
「・・・あの頃は私も無茶をしていました」
趙雲は目を細めて懐かしむように、けれど一層慎重に言葉を選んだ。
今はそれら一切の関係を断ち切り穏やかな生活を送らせてもらっているそれは偏に劉備の尽力があってこそだ。
「…自分も、李典殿に感謝しているのです」
趙雲の心を読んだように楽進が料理を再開しながら一つ二つと言葉を重ねる。

「最後の最後に道を外さずに済んだのは、李典殿がいてくれたからなのです」

突き抜けるほど鮮やかで透き通った晴天のような笑顔。
つられて趙雲も破願する。
風の暖かな日のことであった。



12.


「趙雲殿、助けてください!」
姜維の悲痛な叫び声から始まったのは、今日中に提出しなければいけないレポートのデータの入ったUSBを家に忘れて仕舞ったとのことだった。
頼まれるがまま姜維の部屋に入ると件のものは机の上のパソコンにささったままで、趙雲は携帯電話ごしに今から持っていく旨を告げた。深謝する姜維と待ち合わせをして電話を切る。必要なものだけを以て久しぶりに電車に乗った。

「ありがとうございます、趙雲殿!」
どん、と抱きついてきた姜維の頭を撫でてやる。すぐさま印刷して姜維は三時に閉じてしまうという教授のボックスに厚いレポート用紙を入れた。
「お礼にお茶でもしていきませんか」
大学に進学しなかった、そもそも十分に学を修めていない趙雲には学び舎と言うものは全てが目新しく、未知の世界であった。さまざまな人間が多方に行きかう様子は見ているだけでも楽しかった。
連れられるままテラスに座って今日のおすすめケーキを口に含む。姜維はコーヒーを口にしている。その一挙一動を眺めながら、贔屓目に見ても男前の縁戚に少し誇らしくなった。血の繋がりなど無いに等しいが、幼い頃から彼は自分に懐き、倦厭する周囲から飛び出して自分の元へと駆けてきてくれていた。
姜維が趙雲の視線に気付き、どちらとも無く口を開く。

「はーくやく!」

その背に強くぶつかる人物がいた。がちん、と音を立てて前歯がカップの淵に当たる。
キッ、と振り返り相手を睨み付ければ、姜維が思った通りの人物がそこにいた。怒りはすぐさま呆れと諦念に変わる。
「仲権…」
「あれ、伯約その綺麗な人って伯約の彼女!?」
隅に置けないな〜、だからいっつも合コン誘ってもことわるのか〜、これほどのレベルの彼女じゃ他に目なんていかないよな〜、と一人ぶつぶつと呟いている。
大いに誤解されていると趙雲が否定しようとしたときだ。夏候覇がナプキンにどこからか取り出した油性ペンで何か数字を書いて趙雲に渡した。
「伯約ばっかりじゃなくてさ、今度俺とも遊んでよ!」
「仲権!!」
姜維の拳をさらりとかわし教授に呼ばれているのだと颯爽と立ち去っていく、まるで台風一過だと趙雲は呆然と手を振り返しながらその後ろ姿を見送る。
彼が振るその掌にくっきりと黒く数字が滲んでいるのが、彼の憎めない性格を表しているようだった。