13.
子供たちがまだ幼かった頃、劉義兄弟は急激な右肩上がりを見せる会社を上手く走らせるために毎日、仕事づくめであった。休日に家にいないことも多く、家事の一切を趙雲が任されていた。
保育園の送り迎えに、子供たちのお弁当を作ったり汚した服の洗濯をしたり。熱を出したときは病院に連れて行き付きっきりの看病もしていた。必然子供たちは趙雲によく懐き、園のお友達には「おかあさん」と紹介していた。
そんななか、奇跡的に五月の連休のうち二日間の休みを取ることに成功した劉備は、子供たちと動物園に行く支度をしていた趙雲を呼び止めた。
「趙雲、今日は子供たちではなく私の子守をしてもらえないか」
冗談めいた言葉で手を引いて家を出る。
今日一日子供たちの面倒は関羽と張飛に任せることにして、二人は寂れた喫茶店に向かった。懐かしい匂いのする店内はクラシックが延々と流れており、客足は疎らだ。
劉備はホットコーヒーを、趙雲はアイスティーを前に少し昔を思い出していた。
14.
楽進が李典を「道を外しかけていた自分を引き戻してくれた」恩人だといったように、趙雲にとって劉備は「人としての生き方を教えてくれた」恩人であった。
まるでドラマや映画の中の出来事を趙雲は体験した。それは今も心の奥深くにしっかりと刻み込まれ、暖かい温もりとともに仄かに甘い香りを漂わせて趙雲を守るのだ。
「お前がここにきて、随分と経つな」
「はい、阿斗様も大きくなりました」
口数少ない会話が互いに心地よい。
新しく買ったリュックを背負って、新しく生まれたというホワイトタイガーの赤ちゃんを見るのだと息巻いていた姿を思い出し、無意識に口許に笑みが浮かんだ。
「本当に劉備殿には感謝しております。人を傷つけることでしか存在を示せなかった自分が、いかに愚かだったか、」
最初の頃は子供たちの笑顔を見るたび逃げ出したいと恐怖し、強い眩暈と吐き気に苛まれたことも少なくはなかった。
「もう無理だと泣いて逃げようとしていたのが懐かしいな、」
そういって劉備は優しげに目尻を下げる。責めるわけでもからかうわけでもなくただ純粋に懐かしいと、そして人として成長した趙雲の姿を喜んでのものだった。
「私は劉備殿に拾って戴けて、本当に感謝しております」
「趙雲、それは違う」
テーブルの上に置かれていた趙雲の手を劉備の手が包み込む。
「お前が、選んでくれたのだ」
じわりと趙雲の視界が滲む、泣くまいと下唇を噛みしめ耐える。自分は本当に幸せものだ、もしここに劉備以外の人の目がなければわんわんと声を上げて泣いてしまえただろう。それほどに、趙雲は嬉しかった。
真っ赤になって唸る趙雲の隣に、物がぶつかる鈍い音がした。
音の方に視線を向けると八つの幼い顔が並んでいる。趙雲は大きな目で何度か瞬いた。関羽と張飛に連れられて動物園に行っているはずなのに。どたどたと子供たちは店内の、趙雲に向かって走ってきた。いの一番に、阿斗が趙雲の腰元に抱きついて、顔を上げた。
「ちーと一緒がいい!」
続いて店に入ってきた関羽と張飛は苦笑いして趙雲に目配せする。わらわらと子供達に取り囲まれ、一緒に!と手を引かれて、趙雲はされるがままに立ち上がった。
外は雲一つない快晴、劉備も趙雲も子供たちに手を繋がれて一緒になって外へ飛び出した。
15.
徐庶は色とりどりの花の並んだ店先で暫し立ち尽くしていた。
恋人に花を贈ろうと思い立ったはよいが、いざ実物を前にするとその種類の多さに徐庶は二の足を踏んだ。お洒落な店先は近付くことさえ躊躇させる。
こんな薄汚い陳腐で愚鈍で矮小な自分が花束なんて、などと次第に陰鬱となる気持ちに回れ右をしようとした時である。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声が掛けられる。温室から顔を出したのは少女ともいえる風貌の清楚な女性だった。白百合を抱えた姿は彼女によく似合うと思う。
「お探しものですか」
ことりと首を傾げられて徐庶は意を決する。
「大切な人に、は、花束を贈りたいんだ・・・」
「蔡文姫」と名前の書かれたネームプレートをクリーム色のエプロンに付けて、彼女はくるくると舞うように花の合間を縫っている。
「お相手の方はどんな方でしょう?」
徐庶はホウ統の姿を思い出す。外に出るときは勿論家にいるときでも大抵はマスクで顔を覆い、難しい本を読んでいる。少し癖のある間延びした声が徐庶の名を呼ぶ。
「…とても、優しい人なんだ」
隙あらばネガティブ思考に陥ってしまう自分を、時に真正面から叱責する。けれどその言葉は突き放すものではなく、救い上げるような、心の中にすんなりと落ちてくるものだった。
「こんな、意気地のない、顔もよくなければ頭もよくない自分とずっと付き合ってくれてる、俺がどんなに支離滅裂なことを話していても黙って聞いて理解してくれる、かけがえのない人なんだ」
蔡文姫は徐庶の言葉を頷いて聞いている。時折花を二三本手にしては重ねていった。
「外見は俺よりもずっと小柄で可愛いんだ、でもしっかりと自分を持っていて、ふらふら迷ってばかりの俺を叱ってくれる。手先が器用で、料理が上手なんだ。…色は、きっと白だ。何も塗ってない白じゃなくて、光沢のある、白い絵の具を塗ったような…」
恍惚と徐庶は語る。一息ついて自分が随分と一方的に好き勝手喋っていたかに気づくと、途端、恥ずかしくなってしまった。初対面の人に、なんてことを、無意識に頭を抱える手が伸びたそのとき、
「はい、どうぞ」
差し出されたのは真っ白な花束だった。緑葉色が添えるようにあるだけで、見事なまでの白だった。真ん中にぎゅうと詰まったバラを取り囲むようにさまざまな種類の白い花が広がっている。
「とても、幸せそうでしたよ」
蔡文姫が微笑みながら徐庶に花束を手渡す。
「お客様から見た相手の方のイメージで作らせていただきました」
徐庶は瞳を水膜で滲ませて、ふるふると震えた。
そっと、大切なものを抱くように、花束を受け取る。
「よ、喜んでくれるだろうか…」
徐庶は熱に浮かされたように一人呟いた。それを蔡文姫が聞き取る。
「大丈夫ですよ、きっと、」
力強い言葉に背中を押され、徐庶は恋人の待つ家に帰る。
その足取りは心地良い緊張に包まれていた。