16.
阿斗を抱っこして趙雲は保護者の間で評判だと言う近くの個人病院を訪れていた。
他の子供たちは元気に登園したものの、一番下の阿斗だけは昨日から夏風邪をひいてしまったらしく苦しげな咳をしている。朝方には熱も上がり、趙雲は慌てて近所の小児科医に向かったのだった。
アイボリーの壁に絵本が並ぶ本棚、上品ながらもどこか安心する空間で、趙雲は阿斗を抱きしめながら名前が呼ばれるのを待っていた。平日でありながらも人が並んでいる様子を見たときは、愕然としたものの阿斗の名はすぐに呼ばれ、趙雲は目と鼻の先の距離を小走りした。
促され診察室に入ると、白衣を着た黒縁の眼鏡をかける年の若い医師がカルテに何か書き込んでいるところだった。
「随分と熱が出ているようだな」
開口一番に指摘され、しかもその内容があまりに芳しいものではなかったため、趙雲は眉を寄せ、阿斗を抱く腕に力を籠めた。劉備に預けられたという理由だけではない、自分の境遇を救ってくれた子供である、もしも何かあればと熱帯びた幼い身体を守るように抱いた。
「案ずるな、ただの風邪だ」
それが幼い子供にとって致命的であることは子育てに携わったばかりの趙雲でもよく知っている。どうしたらいいのか、わからないと目尻に涙が浮かぶ。助けてほしいと今まで一度も口にしたことのない言葉を、始めて会ったばかりの男に向けて叫んだ。
「落ち着け」
医師は冷静だった。隣にいた看護師になにごとか指示すると運ばれてきた医薬品を注射する。
「お前がパニックになってどうする」
すう、と呼吸の落ち着いた阿斗を見て、医師と向き合う。涙に濡れた瞼が数回瞬いた。
「子供は大人の感情の機微に敏感だ、お前が冷静さを失えばその気配を感じ取り、子供は不安になる」
すとん、と医師の言葉は趙雲の心の中に落ちてくる。医師はメモ用紙に数字11ケタの数字と幾つかの文字を書いた。
「困ったことがあれば連絡しろ」
それは医師の名前と携帯の番号だった。視線がかち合う、曹子恒というその医師は趙雲にむけて不敵に笑った。
17.
「久しぶりに顔を出したと思ったら、随分と丸くなった」
華佗に指摘されて趙雲は咄嗟に両手で頬を覆うと、そうじゃない、と華佗は笑って首を横に振った。
椅子に腰かけて趙雲は深く頭を下げている。いつもは一つに括っている髪を解き、両肩へと分けて流しており艶めいた絹糸のような一本一本がさらさらと波打った。外出用の詰襟の服ではなく白のワイシャツにカーディガン姿、首筋に深く掘られた刺青が人工灯の下に晒される。
「随分と薄くなったんじゃないか」
華佗の指先が、趙雲の肌の上で身を捻らせる「昇龍」をなぞった。
これは彼の今までの人生そのものであり、彼の罪そのものだった。
「消してほしいのか」
趙雲は左右に首を振った。彼の話は人伝に聞いていた。劉備にその身を助けられ、彼の下で子供たちの世話を任されているという。これから人間社会に触れていく子供たちと共に趙雲もまた人の世の理を知っていくのだろう。ならばこの刺青は失ってしまった方がいいと、華佗は彼が望むならば自分のもつ最高の技術を以て綺麗さっぱりと消し去ってやろうとおもったのである。
けれど趙雲はそれを不要だと断った。
「これは、私だから」
そっと趙雲は首筋に手を宛てた。
「足枷となるのではないか」
華佗の問いに趙雲は小さく笑ってそうかもしれないと肯定した。
「けれどそれで苦しむことも後悔することも、私の一部であり人生なのです」
華佗は幼い頃からずっと彼を見ていた、血反吐を吐いて苦しむ姿も狂気に触れたその瞬間も、全て
「趙雲、」
透けるように白い肌を見つめて、華佗は願う。
どうか、彼の行く先が幸多きものであるようにと。
18.
「あれ、劉禅のおかーさんですよね!お久しぶりです、俺のこと、覚えてますか!?」
随分と背の高いその青年を見上げる形で趙雲は暫し固まった。
すいません、どなたでしたか。と正直に尋ねた方がいいのか、勿論、覚えてますよ、本当にお久しぶりですね。と答えた方がいいのかなどとと迷うよりもまず、私は家政夫であり阿斗様のお世話は現在進行形でしているがお母さんではありませんと否定するべきではないかと、頭の中は高速回転する。
受け答えすべく口を開いたその瞬間、
「俺、俺ですよ、劉禅と小学の時仲の良かった、司馬――、」
ああ、と趙雲は手を叩く。よくよく見れば茶色がかった髪を跳ねさせた体躯の良い青年は、その面影を色濃く残していた。
いつも絆創膏を顔や膝、肘のいたるところに張り付けて、冬でも短パン、ぼろぼろに叩き潰されたランドセルからはリコーダーが覗いていた。一度、劉禅の誕生日会に呼んだことがある。ただ、そのあと彼の家族はすぐに引っ越ししてしまい、趙雲は劉禅とともにとても残念に肩を落としたことを思い出した。
「子上君!お久しぶりです!」
わあ、と二人は指を組み趙雲はその身長のため飛び跳ねた。
「いやー、5年も経ってますけど、俺、趙雲さんは一発でわかりましたよ!相変わらず、お綺麗ですねぇ!」
これは完璧に母親と思われているのではないだろうか、と趙雲は内心嫌な予感でいっぱいだったが、とりあえずは彼がここにいる理由を尋ねた。
「こっちに戻ってきたんですよ、高校もまた劉禅と同じです」
兄ともどもよろしくお願いしますね、と挨拶され趙雲は子供たちを思い嬉しくなった。友人は多い方がいい。
「また、遊びに来て。待ってるから」
「勿論です!」
ますます賑わいを見せる街並みに、二人は顔を合わせ笑っていた。