刹 那
どうか、愚かな女だと、わらってはくれないか。
疲弊した表情で笑う彼女は、縋るように手を伸ばした。人を焼き殺すための焔を作り出す指先は、まるで淑女の如く白く、美しかった。どこか甘えたがる声に平生では突き放す所作をとるエドワードであったが、この時ばかりはされるままに、そっと、両手がエドワードの両頬を包むのを甘受した。それが、彼女にとっては何よりも喜ばしいことであったのだろう、撥ね退けない手に驚いた顔を見せたものの、すぐに破顔し、うっとりと彼女はエドワードを見つめた。
わらっておくれ、鋼の、
重ねて言われるも、エドワードは一切の表情を浮かべないまま、強いて言えば無理やりに無表情を作って、彼女の一挙一動、一字一句を注視した。こまったな、と眉尻を下げて苦笑して見せても、エドワードは、頑なに隠された彼女の真意を探り続ける。
ぺたぺたと飽くことなく頬に触れる彼女の指先は、酷く冷たい。まるで氷水に何時間と浸したようで、蝉の煩く鳴く季節には似つかわしくなかった。汗でべたついたエドワードの頬に与えられる冷たさは心地よかったが、ともすれば触れたところからエドワード自身を凍りつかせてしまうほどの威力をもった彼女の冷たさには、他者では些か恐怖するものがあった。じっとりと汗を纏わりつかせるエドワードとは対照的に、彼女はどこまでも涼しげであった。
なんだか憎たらしい、とエドワードは口を噤んで愛玩動物を撫でまわすごとく頬を撫でる彼女をじっと睨む。彼女は答えない。エドワード越しに遠くを見つめ何事か思案する彼女には、触れる熱だけが唯一だった。故意ではないと判っていても、腑に落ちないところがあるエドワードは彼女の両手を引っぺがし、指先にがじりと歯を立てた。大きく肩が跳ねて視線がエドワードに向けられる。漆黒の双瞼が指先を食む青年の瞳とかち合った。意識と思考を引き戻され、彼女は曖昧に笑みを作る。エドワードにとっては見たくない、嫌いな類のものだった。
蔑んでくれ、嘲笑してくれ、
その願いを聞かされるたびに、エドワードは絶望する。
ふかく、そこのない絶望だ。
彼女が希うのは自分だけだという事実は救いにはならない。むしろ、より強く、エドワードを底へ底へと沈ませるだけだ。
それでも、
無意識に犬歯に力を込めると、咥内に広がる錆びの味が濃度を増した。どこか甘い、命の一欠片。
彼女はエドワードにだけは語らない。曖昧に濁してかわして、目を逸らさせるのが常套で、エドワードが入隊し、佐官に命じられた今でもそれは少しも変わることが無い。信用が無いのだと思う時もあった、しかし、時折、こうして二人きりになったとき、彼女は酷く凝った瞳でエドワードに願う。他者には見せないその姿を、エドワードは受け止める。受け止め、何も言わず、されるがままに。けれど彼女の望むことは一切として拒絶して。
「鋼の、」
離せとは言わない。悪戯をやめない子供を叱る母親のような声だ。
「きみがわらってくれないのなら、わたしはどうしたらいい?」
そっと唇から指先をはなせば、一筋の糸が伸びて、すぐにふつりと切れる。鮮やかな赤が広がる指先を、彼女は非難しない。痛みを拒絶するという思考など、とうにないのだ。苦痛はあたえられて然るべきなどとほざく彼女のことだ。
「ねぇ、はがね、」
「笑うな、ロイ」
お前だけは、お前を嗤ってくれるな。
歪な作り笑いをこれ以上見ている事が出来ずに彼女が何か云う前に、強くその体を抱きしめることで言葉を塞いだ。両腕に簡単に収まってしまうほど、彼女は小さかった。
昔は見上げるだけだった存在が、いまではいとも容易く見降ろし、腕の中に囲い込めてしまう現実に、一抹の不安を抱き、悲しみに途方に暮れるのだ。
ならばせめて、と今にも折れてなくなってしまいそうな彼女を抱いて、祈る。幼い子供の、他愛のない願いごとのように。
「俺は、お前を嗤わない。だから、お前も嗤ってやるな」
してきたことを、後悔してもいい。否、後悔していくべきなのだ。俺たちは。悔やんでも、悔やみきれず、苦しんでも構わない。けれど、愚かなことを、と嘲笑し、傷つけないでやってくれ。
「ロイ、お前自身を」
ただ抱きしめられるがままであった彼女が僅かに身じろぐ。徐に腕が持ち上がり、エドワードの背中に僅かな重みが懸る。エドワードからは、黒髪に埋もれる旋毛しか見えない。年相応に逞しくなった胸元に頭を沈めて、確かに、ロイは震えていた。
「泣いてかまわないんだ」
唇をロイの耳朶に寄せて囁く。聞こえてくる微かな嗚咽が鼓膜を震わせ、エドワードはもっと、とロイを引き寄せる。金色の長い髪がロイの肩に触れて、影を作る。
「、俺がアンタを大事にしてるのに、あんたがあんたをだいじにしなかったら、俺の意味、ないじゃん」
わかって、
態と甘えた声をだす。ロイがいつまでも大人ぶっていたいのを逆手にとって。
暫しの間をおいて、返事の代わりにぎゅうとロイの両手がエドワードの上着を握り締めた。温かな掌だった。