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カスマリムの階級


明智光秀が武田信玄に下った。彼にも思うところがあったのだろう、昌幸はそのことには何も口出しをしなかった。周りは、彼が織田の重臣であったことなどを取り上げて苦渋の色を隠さないが、信玄はそれら意見を呵々と一笑して正面から明智光秀と対した。それこそが信玄が天下に名を馳せる所以でもあるのだが。
どこか吹っ切れたように晴々とした明朗な表情を遠巻きに一瞥して、昌幸は帰国の支度を始めた。結局明智が武田に下ることで終着を迎えた戦ではあったが、戦事態は苛烈を極め、両軍とも被害は軽くはない。もとよりどんな決着がつこうが戦とはそういうものである。多かれ少なかれ傷をつけた者はいる。昌幸も、それらに漏れず、信玄の傍回りとして戦場を右往左往と駆けていたため、どこかしこに怪我を負い更には埃と土に塗れた姿であった。他方面から進軍した勝頼に見つかれば何と言って揶揄われるかわかったものじゃない、辛うじて汚れの少ない布切れを一枚貰って、昌幸はとりあえず赤い飛沫の飛び散った顔や手を拭いた。

「ふおおおおお!美人さんなのじゃ!正しく掃き溜めに鶴なのじゃー!」

突如辺り一面に響いた姦しい声に、昌幸は顰めっ面で横向いた。そこには目を輝かせて昌幸を指さす少女。
藤色を基調にした、年相応の華やかな着物に身を包んだ彼女の裾には、桔梗紋が縫い込まれていた。どこかでみたような気がしたものの、どうでもいい、と昌幸は愛らしい少女を前にして見下ろしながら、憮然とした態度を崩すことはなかった。
「なんだこのガキは」
「ガキではない!ガラシャなのじゃ!」
ふーん、とも、へー、と判別しがたい、返事が返る。全く以って興味ない、と如実に語るそれに、ガラシャは憤慨し、もう一度名乗りを上げた。名乗られても特に興味のない昌幸は、その家紋をもう一度見つめ、ああ、と思い出す。
「明智光秀の娘御か。…お嬢ちゃん、ここはお嬢ちゃんみたいなガキがくるようなところじゃないんだよ、わかったなら、さっさとお帰り」
前文を一人語散て、其の後は顔を背けながら昌幸は左手でガラシャを追い払う仕草をする。既に昌幸の頭はこれからの戦後処理に向けられており、光秀の軍の規模やら織田の動向やらで手一杯である。彼がどの席に据えられるかで外様の自分たちは勿論の事、親類衆も穏やかではないだろう、信玄が光秀を引き込んだことが吉と出るか凶と出るか、昌幸は断言などできる立場ではないが、ありとあらゆることを想定しつつ、口を閉ざした。昌幸のそののっぴきならない態度にガラシャは頬を膨らませて、ぎりぎりと今にも歯噛みしそうな表情を見せた。
「うむむ…見かけによらず手厳しいのじゃ…」
清廉でありながらも柔和な顔付きは、中性的な印象を与えるがその口から飛び出す言葉は、相手の心臓に突き刺さるほど鋭くて厳しい。深々とした傷を作りさらに追い打ちをかけるように続けられる彼の意見は、的を射ているがゆえに聞くものを震撼させる。整いすぎた顔は冷たい絶対零度の眼光も伴って、恐ろしくそして引き込まれるほど美しい。それが昌幸に多くの将兵や領民が敬愛する理由でもあるのだが。
勿体無い、と唇を尖らせる少女に我関せずを貫く昌幸、不思議な組み合わせであるものの、周囲はあまり気にかけず通り過ぎていく。
「見目ならお嬢ちゃんとこの父御殿のが、よっぽと上等だろ」
遠回しな昌幸の皮肉はガラシャには到底通じず、ガラシャは父光秀が褒められたことに両手離しで喜び、意気揚々と瞳を輝かせてなおも寄り詰めた。よくぞいってくれた、と前のめり姿勢に、昌幸は地雷を踏んだと殊更嫌そうな表情を向けたが、純真無垢、天真爛漫を地で行くガラシャには通じない。
面倒なものにあたったと、昌幸の眉間の皺はますます深く刻まれていく。

「うむ!父上はきれいで強くて優しいのじゃ!そなたもそうであろう」

昌幸を父光秀と同じ、優しく強く、美しいと評価したガラシャに、昌幸は目を見開いて閉口した。純粋な驚きだった。そしてその表情は見る見るうちに険しくなり、昌幸は忌々しいものを吐き捨てるようにガラシャを糾弾する。

「…慈悲深いことが、一体なんだというのだ」

地を這う、低くおどろおどろしい声だった。少女に向けて発するものではなかった。唾棄するような口振りと、憎悪する目の色は、昌幸の感情を如実に示していた。ガラシャは豹変する昌幸の前に口を閉ざす。あしらわれていたよりも心地悪い、年端も行かぬ少女でなければ吐き気を催し其の場から逃げ去ってしまうほどの、憎しみと怒り。

「きれいでやさしいだなどと、反吐が出る」

荒々しくなる語尾に、ガラシャは首を傾げ、昌幸を注視した。大人げない、とわかっていても、昌幸には毛頭止めるつもりなどなかった。それほど人間できちゃいない、というのが昌幸の自身に対する評価だ。
気に食わないことを言われれば、たとえ相手が子供であれ位のある人間だとて、自分は真っ向から否定する。その価値のない人間には話すことすら拒絶するが、往々にして、そういう人間は昌幸と口を交わすことのないほど位が高い人間であったりするのだ。
「そんなもの、なんの役にも立たない」
ガラシャは途端、悲しくなった。どうしてこうも彼は拒絶するのか、口振りは乱暴で慈愛の欠片すら彼から見出すことはできない。けれどそれは、彼自身があえて作り出したもの。本当はきっと誰よりも、優しい存在のはずなのに。しゅんと押し黙ったガラシャに、昌幸は重い口を開けた。その瞳は正しく親そのもので、彼はガラシャを通して、大切なものを見つめていた。
「お嬢ちゃん、俺にはお嬢ちゃんみたいな真っ直ぐで澄み通った瞳をもった、この世の恐れも無情も知らない息子共がいる。その無知ゆえか、他者に易々と慈悲をかけるその優しさに、あの子たちが死んでしまうのではないかと思う、俺は、それが、怖い」
無意識に身体の震えを押し殺すような動きをする。ガラシャが父光秀に見る父というものの姿だった。しかし、しっかと立つ光秀のそれとは異なり、昌幸の姿はあまりにも、弱弱しい。

「あの子の慈悲があの子自身を殺すなら、優しくなど在るな」

昌幸は常々それを恐怖していた。昌幸は幼少のころから強く優しい多くの師に囲まれて育った。時に厳しくもあったが彼らに学ぶことは誇らしかったし、多くのことを、それは戦術といったものだけでなく人としての在り方を、教わった。そばにいれたことを今でも鮮烈に覚えている。けれど、その者達の多くはすでにこの世にいない。病に倒れたもの、戦で散ったもの、さまざまであったが、残された昌幸の中で与えられた多くの優しさは火に熱して付けられた鉄印のごとく心臓に張り付いている。
怖い、悲しい、苦しい。
子供のように昌幸は小さくなる。負の塊のような自分を見て育ったはずなのに、子供たちは眼も眩むほど恐ろしく純粋で無垢で、あたたかだ。美しくきれいな優しさなど、まがい物だ。そう言い聞かせても、一向に頷こうとしない、まるで、いま目の前で昌幸を見上げる少女のように。
そのまっすぐな瞳に射抜かれて、昌幸は踵を返した。これ以上留まってはいけないと警鐘が鳴り響いたのだ。足早に雑踏の中に消えていく姿を見眺めて、ガラシャももと来た道を引き返した。




遠くに探していた姿を見つけるとガラシャは腰元に飛びついた。飛びつかれた相手はすこし踏鞴を踏んだものの、こういった突飛な行動には慣れているのか、「ガラシャ、」と窘める声は至極優しい。ガラシャは光秀の具足に顔を埋め、今あったことを思い返し、敬愛する父ならばと問い質す。
「のう、父上。優しいことは、悪いことなのか?優しいと生きてはいけぬのか?」
光秀はガラシャのいつになく沈んだ様子に、怪訝な表情で見下ろした。それに応えることなくガラシャは記憶に鮮明に残る昌幸のどこか憎悪すら含んだ声に、遣る瀬無くなっていく。
父が、そして自分が望む世界で、きっと彼は酷く悲しい顔をするだろう。
その理由など、彼にしかわからない。けれど、とガラシャは唇を噛んだ。

「それでもわらわは、優しいのが好きじゃ」

ぎゅうとガラシャの腕に力がこもる。振り絞るように吐き出された言葉。
光秀は何も言わず、その小さな頭をずっと、撫で続けていた。