私の愛した記憶


「馬鹿ね、」
ほんと馬鹿な人、と彼女は笑う。
泣きだしてしまいそうに破顔した彼女は、夏の涼風に身を委ねてゆっくりと振り返る。

大学の夏休みを利用し、行き当たりばったりの一人旅を始めた基次は生憎の土砂降りに足止めされ、僻地も僻地な田舎に留まっていた。そこで偶然に出会ったのが、都会から帰省していた宿泊先の高校生の一人娘だった。近くには合同の小中学校しか無いために必然進学のためには生まれ育った町を出る必要があったのだという。
彼女は自宅兼宿泊施設の入り口で基次を見るや否や、その手を引いて駆けた。基次の静止も、すれ違う旧知の顔が声をかけるのにもおざなりな返事を残して、坂を下りて、上って、二人は一本の大樹の下に到着した。
基次はその大樹の雄大さに閉口した。それは、雷が落ちたのか、突風に捲かれたのか、縦に切り裂かれていた。もし、生木であればこの時期には青々とした青葉を生茂らせて天を覆うほどであっただあろう、残念に思う。
夏の日差しに目を細め、見仰ぐ基次の隣で、同じように彼女も眺めていた。
どこか心地よい、暫しの沈黙。
「もう、何年たってしまったかなんて、わからない」
年の割にひどく大人びた、そして寂しそうな声だった。
随分と長い時間、掛かってしまった。
徐に横向いた基次に、彼女が答えた。視線が交差する。
その瞳の色、映る自分に懐かしさを感じて、ぞわぞわと基次の首筋が騒ぐ。彼女のいう「長い時間」に心当たりがある気がして、基次は記憶を辿るが、全く引き出すことができない。
それでも彼女の言うそれを自分はどこかで彼女と共有している、もしそうでなくても、自分は確かに知っていると、騒ぐ心臓に、基次はじっと、彼女の上から下まで輪郭をなぞる。
長くふわふわと跳ねる黒髪に、透けるような、けれど色みのある肌。アーモンド形の切れのある丸い目。意志の強さを感じさせる顔に、平均より幾分か華奢な体。すらりと伸びる手足。自然が織りなす美しさと相まったそれに、基次は初めて会った気がしなかった。
ふわりと髪が舞う。

幾筋もの赤い傷跡を体に刻んで、隣で快活に笑う姿。血糊で所々固まった髪の毛の束が風にぎこちなく吹かれる。
また、会えるでしょうけれど、さも煩わしいといった様子で悪戯な笑みを基次に見せる。汚れた揃いの猩猩緋の陣羽織は並ぶと酷く目についた。着るわけないと零していたくせに、最後の戦にわざわざ揃えて着飾ってくるなんて、と思ったものだった。
率直にそれを持ち出してきた理由を問えばごく簡単に答えは返って来た。
「黄泉の国でたとえ全てを・・・、己が何者かでさえ忘れてしまっても、これを着ていれば思い出すでしょう。少なくとも、私は貴方を、」
そして、貴方は私を、
最後はより深く彩られた鮮やかな笑みに取って代わられた。平生ならば嫌がるそぶりを見せるところであったが、そうだな、と呟いた。その一言が意外だったのか、丸みを帯びた瞳を更に丸くして、ぱちりと瞬きをひとつ。なんだ、と胡乱に睨んでみせるが、いいえ、と首を振る。その表情がとても幸福そうで、自身の顔も緩むのが判った。

結局、と基次は彼女の髪を指先に捲く。
思い出せば、今の今まで別たれたままだった。
「悪かった」
「いいえ、私も」
いつになくしおらしく見上げてくる懐かしい姿に、基次は目を細めた。
業は深く、恨みは根強かった。漸く晴れて人道へと魂が導かれた時には、思ったよりも長く時間がかかってしまった。
忘れたまま、それでも最初に自分に気づいたのは目の前の彼女の方だった。
「惨めたらしくあなたより長く生きて、人を殺した分だけ、私の方が遅くなってしまいました」
口元を歪めたどこか自虐な笑みすら纏めて、基次ぐは抱きしめてやった。
これからはずっと、いっしょだ。
そっと抱きしめ返してくる手のひらは、今は白く、美しかった。







輪廻ネタその2
前回とほとんど変わらないっていう、酷い。
タイトルは「あなた/の/愛した/記憶」より