余暇地獄を抜け出す方法

「卿は何故(なにゆえ)天下を望まぬ、」

昌幸は干菓子を手にしたまま一瞬動きを止めた。
勝手に息子の屋敷に上がりこんだ挙句、不躾に見下ろす凝った黒い瞳に、恐れをなしたわけでも驚いたわけでもなかった。
なにをこの男はくだらないことを聞いてくれるのだろうか、昌幸は落胆したのであった。
そして直ぐに干菓子の咀嚼を再開すると何事も無かったように崩した膝の上に広げた書簡に目を落とす。
食べ零しが落ちていくのを適当に払って、他の一切に関心を示さない。
黒尽くめの男、黒田如水は昌幸の態度も意に介さす摺り足でゆっくりと昌幸の前に立った。昌幸はちらりと見上げたが、すぐさま次の干菓子に手を伸ばし、目は文字を追い始める。

「真田昌幸、可笑しな男だ。貴殿は天下を取る技量も知恵も、真田幸村という非常に使える駒を以ってして、何故天下を望まぬというのか。」

如水は不思議でならなかった。
武田の下に在りし頃はもとより、真田家は混迷する戦乱の世にあって其の名を広く知らしめてきた家だった。徳川二万の兵を三千で打ち破ったことは、記憶に新しい。かの織田信長にあっても、彼の智勇を高く買っていたという。言わずもがな、秀吉はその次男を寵愛し、太刀を贈り屋敷を与え、己の手元で育て、そして己の姓を与えた。
次男幸村は人質と銘打ってはいるものの、その柔和な人柄や実直な性質、そして戦場においてみせる鮮烈な命の輝きに、それを悪戯に誇示しない清廉さを好まれ、豊臣の中で武断派、穏健派問わず一目置かれる存在であった。兄信幸にあっても、弟同様にその性質を好まれ徳川に手厚く遇されている。
何故、と如水は昌幸に問う。
昌幸ほどの手練手管の持ち主ならば、息子二人を介し豊臣徳川の両者を手玉に取り天下を取ることなど不可能ではないかもしれない。もしくは昌幸自身の采配で天下を賭けた大戦をするのも吝かではないのかも知れない。
如水にとって、天下など泰平であれば誰の手に委ねられても構わないことであった。
だから、如水は思ったままに昌幸に問いかけたのであった。
けれど昌幸は何も答えない。

「武田という枷が外れた今、貴殿は何者にもなれるというに、」

天下を望む意志がないのならばそれはそれで残念だ、と如水は肩を落とす。
秀吉の耳に入ってしまえば大事になるようなことを、さらりと言ってのけてしまうのが、如水である。そこに含みなどは一切存在しないが、それでも如水は時折言葉が過ぎるところがあった。それは今は亡き竹中半兵衛にも何度も諌められたことではあったが。

「、テメェ、いま、なんつった?」

紙が破れる音と低く呻くような声に、如水は視線を昌幸に向けた。
口端を無理矢理吊り上げた笑みがあった。しかし瞳孔は見開かれており、其の手は先ほどまで膝に乗せられていた書物をぐしゃぐしゃに握り締めている。

「なんて言ったかって聞いてんだよ!」

干菓子に並んで添えられていた湯飲みを握って、昌幸はそれを如水に投げつけた。しかし既に冷たくなっていたそれは如水にあたることなく、壁にぶつかって派手な音を立てた。
如水は些か驚いた。細い目を僅かに見開いて、昌幸の行動を観察する。昌幸は舌打ちを鳴らした。

「っ、脚が悪いんじゃねぇのかよ、」

昌幸の視線を辿り、如水は己が平生引き摺って歩く左足を一瞥する。湯飲みを除ける折、上司を左足を軸に最小限の動きでそれを避けたのだった。
激昂する昌幸に、如水は一瞬高揚を覚えた。いまにも噛み殺さんばかりのぎらぎらとひかる瞳は憎悪に満ち満ちている。かつて長篠にて秀吉が見たという昌幸の姿を、いま、己が見ている。秀吉が恐怖した、其の存在を自分が引き出したという事実に。しかしその理由を、如水は理解していない。理解はしていなかったが、如水は心躍った。

そのとき、父上、と屋敷にいた幸村の声が二人の下に届いた。
湯飲みの割れる音に、怪訝に思ったのだろう。無断で入ってきた如水はこれ以上いては面倒だと踵を返す。
幸村の声はどんどん近づく。

「黒田如水、」

初めて昌幸の口から己の名が出たことに後ろ髪を引かれ振り返る。そこには今にも泣きそうに笑う昌幸がいた。
それでも睨みつける瞳は、憎悪の色に染められている。

「てめぇは大馬鹿野郎だな、」

それだけを吐き捨てて、乱暴に立ち上がると、昌幸は息子の名を呼んで彼に答えたのだった。






配布元:サンライズ