君に帰す


劉備が曹魏を討ち果たしてから暫くのことであった。大国魏を討った蜀漢の統治の下、大きな領土争いは無くなったものの幾度となく繰り返された戦いに家族を、そして故郷を失い放浪の身となった者が盗賊へと身を落とし、農村を脅かすことが少なくはなかった。それらを仲裁し、武器を収めさることを目的に劉備の命により諸将が派遣されることも屡であった。
また、曹魏が蜀漢に取り込まれたことによりいままでの地位を失い所領を失ったものが、乱を起こすこともあった。
そうしたなかで北限の土地で起きた蜀将の在中する城への襲撃は後者によるものであった。いまだ慌ただしい劉備直近の将らの中から、その援軍として半年ほど前に洛陽を出立した趙子龍が、先刻帰陣したとの旨が丞相府に齎されたのは春の盛りの頃だった。
諸手をし、首を深く下げた趙雲は半年ほど北限に留まったことを、深々と謝罪した。諸葛亮と劉備がその理由を尋ねると、趙雲は暫し口を黙したものの諸葛亮に促されながら答えた。
思わぬ敵の強襲にて戦線は長引き、聊か慣れぬ深い雪原での戦いに諸兵は苦戦を強いられた。その上、戦後処理の最中自軍に疫病が流行り出立の予定が流れ、漸く戻ってこられたのだという。戦線が伸びたのは、一帯を管轄している将が雪足の速い土地の戦に慣れていなかったこともあったのだろう。それでも雪解けを迎えてすぐに洛陽まで戻ってきたことに、周囲は彼女の手練に舌を巻いた。
劉太閤が所領を持たぬころから共に戦い抜いてきた趙将軍は、女人でありながら戦に長け、特に寡兵での奇襲と撤退戦の手腕はその追随を許さぬほどである、いくつもの賞賛と労わりの言葉を受け退出すると、長い回廊を歩いて帰路へと向かう。時折、顔見知りと会釈を交わして、聊か重く感じる戦包を鳴らして歩いていると趙雲は彼に会った。
もしかしたら待っていてくれたのかもしれない、
そんな小さな期待がむくむくと湧き上がる、
「趙雲殿、」
どこか舌足らずにも聞こえる柔らかな低い声が名前を呼んだ。
「徐庶殿」
努めて平生の姿勢を崩さずに歩み寄る。彼の腕の中には大小太さの違う書簡が抱かれている、その背には丞相府へと繋がる回廊。趙雲は相好を崩して、彼の顔を見上げた。近くに並ぶと背の高い徐庶を趙雲が僅かに見上げる形になるのだ。
「お仕事中でしたか、」
「いや、あ…うん、」
煮え切らない答え、趙雲はそれを不快に思ったことなど一度もなかった。むしろ、正直すぎる人だと趙雲はひっそりと笑む。徐庶は視線を彷徨わせ、なんと答えるべきかと考えあぐねいているようだ。

彼女の帰還の一報を受けた時、迎えにと諸葛亮が腰を上げるよりも先に徐庶が書棚の合間から勢いよく顔を出した。衝突音が発生したのでは、と思われるほど勢いよく諸葛亮と目があって、徐庶は慌てて顔を反らすとその流れて周囲の書簡に体をぶつけ雪崩を起こす。これ見よがしな諸葛亮の溜息が頭上に落ちて、なお一層居た堪れない思いをすることとなった。
足元に散らばる施策の書かれたそれらは、劉備に届けられる予定のものだ。諸葛亮はそれらを姜維に言いつけて丞相府を後にする。残された形になった姜維と徐庶は諸葛亮を見送った後、散らばった書簡を拾い上げ始めた。
「姜維殿、頼みがあるんだけれど…」
酷く畏まって低頭する徐庶の視線の示す先が、自分の腕の中にある書簡であることに姜維は気付く。これは今日中に劉備に届けなければならない。

「劉備殿に持っていく献策なんだ、」
無意識にそれが諸葛亮の作ったものだと言わなかったのは彼女の瞳に敬意の光が宿ったからかもしれない。施策の懸案には自分も僅かだが手伝っているのだ、嘘ではないと心中で言い分けする。その言い分で行けば姜維もホウ統もバショクも律役者となってしまうのだが。眩しいものを見上げるように目を細め微笑む趙雲に、徐庶は顔を赤らめて目を逸らす。眩しいのは彼女の笑みの方だ。
ふと、逸らした視線の先に、赤く歪むものを見つけた。よく見ればそれは彼女の指先を染めている。凝視され趙雲が気づく、ああ、と眉尻を下げて隠す仕種は徐庶の臓腑をざわつかせる。嫌な気持ちになる。
「少し急いてしまって、」
帰り際荷を纏めている時に指先を切ってしまったのだと苦笑を交えて弁明する。
「あまり痛みはないのですが。けれど時折傷が開き、血が滲んでしまうようで、」
痛みはないというのは嘘だろう。武人とは思えないほど白く細い指先をいつまでも傷つける赤い切傷に徐庶は眉を寄せる。趙雲の手がふわりと持ち上げられた。
「徐庶殿っ、」
慌てふためく声がする。徐庶は気にも留めず掬い取った趙雲の手を恭しく持ち上げて、その指先に口付けた。触れるだけのようなものを、何度も。傷口に、人差し指に、薬指に。繰り返して指の腹に舌を這わせた瞬間、は、と徐庶は我に返った。
顔を上げれば目の前には肩を縮こまらせ真っ赤になって固まっている趙雲の姿。その視線は逸らされる事無く徐庶の握る自身の手に注がれている。
「わあ!」
負けじと真っ赤になって徐庶が慌てて後退する。自分はなんということを、頭の中が真っ白に、目の前が流転する。
「ご、ごめん!」
趙雲はふるふると左右に首を振るだけで、俯いた顔は耳まで朱色になってしまっている。一身これ胆、と評された彼女のおそらく自分以外は知らない姿に、徐庶は嬉しく思うとともに突然の行動に彼女を困らせてしまったという申し訳なさに深々と頭を下げて、足早に逃げ場所を求めるように劉備の下へと向かった。
その途中、ぴたりと足を止めて、振り返る。
「趙雲殿、おかえりなさい。無事で、なによりです」
身を乗り出し、辺りに気を使って声量を潜めてはいるが、どうか届くようにと幾分かは大きめの声。趙雲は、顔を上げて遠くからでもわかる、いまだ同じように顔を染める徐庶を見て、明朝に綻ぶ花よりも綺麗に微笑んだ。
「徐庶殿。趙子龍、ただいまもどりました」
盛りを迎え始めた春の日の出来事だった。






まずは徐趙でした。
このCP超好きなんですが…