泥中の蓮


「怪我はなかったか、」
透き通る声は迦陵頻枷のようであった。
そっと触れられた指先は温かく、くのいちはうっとりと目を細める。黒煙の立ち込める戦場で、くのいちは一人そっと刃を下ろした。
遠く上がる喧騒は悲哀の叫びか、勝利の勝鬨か。どうでもよいことだと頬を撫で掠めるたった一人の主を前に、至極穏やかな心持ちであった。


伏せた視線の先には鮮烈な赤。


幸村さま、
擦れた声が主の名を呼ぶ。戦乱に生きることしか出来ない、既に時代に取り残された哀れな人だ。
伏せた瞼の裏に寂しげに笑う横顔が自然と浮かんだ。そして、主を慕い消えていった数多の命も。
前を向いて次代へと歩くことがどうして出来なかったのだろうと、鼻を啜る。
それを望みながらも諭し、導く事の出来なかった己の愚かさも、それが出来るなどと一瞬でも信じてしまった馬鹿な過去も、何もかも哀れだ。悲しい。
幸村さま、
くのいちの最上の主は何も答えない。
けれど其の清廉な顔には穏やかな微笑が浮かんでいるのだろう。
なんて優しくて残酷な人。
幸村さま、
憎憎しいほど真っ青な空だ。
一度飛び立てば戻ってはこない、そんな考えを起こさせる。
主の近しい者もみな、ここではないどこかへいってしまった。
幸村さま、
ふ、と眼を持ち上げる。
ああ、やっぱり、悲しくなるほど美しいひと。
「そなたが無事でよかった。」
そのたった一言を言い残して、主の姿は掻き消える。
定められた事象にくのいちは其の姿を瞬きもせずに見つめていた。
幻でも幻覚でもない、今当にそこにあったぬくもり。躊躇なく奪われたあたたかさに、呆然と空を見続けていた。
梢を揺らし一羽の鳥が天高く飛ぶ。
この焼け果てた場所に、二度とは戻ってこないだろう。