くるみとはりねずみ

梅、と。小さな声が風に紛れては消える。
一人庭先を右往左往する姿があった。
眉を寄せ、ぼろぼろと涙を落としながら花の名を呼ぶのは、周防の大友家へと人質として送られた毛利家嫡男の毛利隆元である。
冷たい印象を与える国人領主の父元就とは間逆で温和で大人しい印象を与える隆元は大内義隆の元へと送られた人質であった。
隆元はその穏やかさを好まれたため、山口での待遇は頗る良いものであった。あれこれと世話を焼かれ不自由のない身であったが、その隆元が涙を落として縁の下を覗き込んでは目を擦っている。
『梅』とは隆元が大事に駆っている猫の名前である。親元を離れ、一人寂しい思いをしているであろう隆元に義隆が贈ったものだ。
淡茶色の斑の子猫は隆元に良く懐いた。ふわふわの毛並みをもった梅を隆元はいつも手元に置いて大事に大事に育てた。そして梅も隆元の傍を離れないのだった。
猫にしては人によく懐くものだ、と安芸から山口へと連れ立った隆元の御守役は苦笑を零す。
隆元が梅を愛でるのには、もう一つ理由があった。梅の白に混じった淡茶色の毛は父を思い出すからであった。元就の髪色は人より僅かに色素が薄くあった。生まれつきのものなのか、生まれ育った場所が理由か。小さい頃は、後者の理由だろうと思っていた隆元であったが、妹が生まれ、二人の弟が生まれると、それは血統であったのだと気付く。
小輔次郎はそれほどではなかったが、徳寿丸に至っては元就と同じ髪色であった。久しぶりに家に戻ったときにそれをしった隆元は久方ぶりの我が家だというのに、酷く居心地の悪い気分になったものだ。
母方の血を多く受け継いだ隆元の髪は濡れるような漆黒だ。

「梅、梅・・・」

着物の裾が汚れるのも気にかけず、隆元は膝をついて猫の視線になって梅を探す。
今日は父元就が義隆に呼ばれたため、折角だということで隆元と会うことになっていた。隆元は父に梅を見せたいと何日も前から楽しみにしていた。梅にも言い聞かせ、大人しくしているように、とお目付け役の真似をすれば梅はにゃあ、と鳴いたのだった。しかし、いざ父が来る時刻が間近に迫ると、梅は忽然と姿を消してしまったのだ。つい先ほどまで元就を待ちながら日の当たる縁側で二人うとうとと居眠りをしていたはずなのに、隆元は呼んでも呼んでも姿を現さない梅に胸が騒いだ。
元就を迎える準備も後回しに、庭の隅から隅までを探した。

「隆元」

背後から掛けられた硬質な声に、隆元は肩を跳ねさせた。
懐かしい、けれども良く知った声だ。冷水を頭から掛けられたような気がして、隆元は震えた。

「お前は耳が聞けない訳ではないだろう、返事をしろ」

怒気を含ませた声。
隆元は小さく返事をして恐る恐ると振り返り、やはりと身体を強張らせた。切れ長の目鋭い眼光を伴って隆元を見下ろしている。
元就であった。
隆元の姿を視認すると元就は忌々しげに舌打ちを零し、隆元から顔を背けた。そして隆元は漸く気付く。義隆より与えられた其の着物は、華美な装飾の施されたもので、元就はそのような柄を好まなかった。否、嫌っている。だから隆元は父が来るまでにそれを着替えて嫡男らしく振舞わねばならなかった。
しかし梅の所在に気を取られ、隆元はきちんと髪を結うことすらしていない。元就が顔を顰めたのを見て、足元が崩れ落ちる感覚を受けた。
どうしよう、と隆元は青褪めた。

「福原、何処にいる」
「、はい、ここに」

元就は付き従えていた家臣の名を呼んだ。少し離れていたのであろう小走りに近寄ってきた毛利家譜代の福原に向けて元就は、掃き捨てるように言った。

「今日中に山口を発つ。支度しろ」

暫く滞在するのかとあれこれ準備をしていた福原はぽかん、と口を開けた。
そして庭に立ち尽くす隆元を気に掛け、下手に理由を訊ねる。

「で、ですが、元就様」
「黙れ、俺はこのような噎せ返るほどの花の匂いは嫌いなのだ」

そのまま隆元には声一つ掛けることなく、元就は屋敷を後にした。
一人残された隆元は父に挨拶すら出来なかったことに、ぼろぼろと滂沱の如く涙を落としていた。
太陽が傾き、元就が山口を発ったという時刻になっても隆元は立ち尽くしていた。すると草陰からにゃあ、と小さな声がして、梅が其の姿を見せた。滲む視界を拭って隆元が顔を向けると、梅は自分より一回り小さな猫を伴って現れた。真白な猫であった。二匹仲良く寄り添って現れたのを見て、隆元は真白の猫は梅の伴侶であることに気付き笑みを浮かべる。ごろごろと喉を鳴らして、二匹は仲睦まじくじゃれあっている。

違うのだ、と隆元は痛み続ける心臓をぎゅうと押し潰す。
ほんとうは、自分が梅に元就と自分を見せたかったのだ、と。己の愚かさと至らなさに隆元は声を張り上げて泣いた。
次郎のようになりたかった、
徳寿のようになりたかった、
可愛のように、
母のように、

隆元はきょとんと目を丸くして自分を見上げる二対の瞳に向かって石を振り上げようとして、其の手を下ろしたのだった。







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