からっぽのおなか
どうして、
なみなみと水の膜の張った瞳からは今にも大粒の涙が零れ落ちてしまいそうであった。そして見上げてくる混乱と拒絶と悲哀の入り混じった視線は真っ直ぐに鬼灯を射抜き、彼を責め苛み続けている。鬼灯とて、このような暴挙は望んではいなかった。今更それは言い訳に過ぎないのだけれども。
両手首を纏めて鬼灯に拘束されている白澤は、身を包む白衣の前を肌蹴させて押し倒されていた。
押し倒す相手は言わずもがな、白澤の体を己の体で押さえつけている鬼灯だ。
いやだ、と白澤は首を振って鬼灯の突然の行動を否定する。涙が飛び散った。
その一言に鬼灯は頭を金棒で殴られたような衝撃を味わう。顔を合わせれば挨拶よりも先に暴言がすらりと口から飛び出しては間を持たぬうちに拳の応戦になる間柄である。自身も他者も認める三界きっての犬猿の仲。
けれども、と鬼灯は体重を掛けて白澤の首筋に顔を寄せる。
甘い桃の香りだ。
桃源郷に身を置く白澤に香りついたものではない。白澤自身がもつ、優しい香り。鬼灯はその香りを深く吸って臓腑を満たす。ふるりと白澤の身体が震えたのは恐怖か期待か。
「いやだ、鬼灯、いやだよ・・・っ!」
鬼灯の行動の示唆するところに確信を持ってしまった白澤は尚更身を捩って暴れる。首筋が強く吸われ、赤い印が白澤に刻み込まれたのだ。これ以上はならぬことだと白澤の頭に警鐘が鳴り響く。暴れる白澤に意を返さず鬼灯は一つまた一つと痕を残していく。それは徐々に喉元、鎖骨と降っていき、肌蹴られた胸元へと辿り着いた。小刻みに震える白澤を上目で窺うと、蒼白になって鬼灯を見下ろしている。首を振って拒絶を示す表情は強張っていて痛々しい。
鬼灯は自他共に認める加虐性を内外にもつ男であった。けれどそれは仕事の延長であったり、必然を伴うものであったりと、必ず鬼灯自身の理性が存在し、ある程度の抑制を行っている。周知の事実でもあった。
鬼灯は自分の下に組み敷かれ、子供のように泣きじゃくる白澤の胸の頂を甘く噛んだ。途端大きく背中を振るわせる白澤の背に腕を廻しこみ、引き寄せる。いつの間にか白澤の手首を拘束しているのは白澤の汚れてしまった三角巾であった。舌先で執拗に舐めあげてきつく吸っては甘噛みすると、白澤から徐々に力が抜けていくのが腕に掛かる羽のような重みでわかった。
「やだ、やめて、鬼灯・・・」
既に拒絶の声は甘く擦れ、滂沱の如く涙を流し続ける瞳は、虚ろに鬼灯を視界に捕らえているに過ぎない。
白澤のもつ甘い香りは濃度を増し、眩暈を起こしてしまいそうなほどであった。
鬼灯が唇を離すと透明な液体が名残惜しげに糸を引いて白澤の胸を濡らす。
そのまま両腕を突っ張って距離をとった鬼灯に白澤は安堵の息をつく。突発的な彼の戯れだったのだと。身を起こした鬼灯が馬鹿馬鹿しいことを自己嫌悪の八つ当たりに自分を引っ叩いてくれるのを期待して。けれどそれは白澤の希望に過ぎなかった。
「、鬼灯?」
鬼灯の手が性急に白澤の下肢を顕にするのを、白澤は目を見開いてみていることしか出来なかった。
そして片脚を持ち上げられ、半端に脱がされ下衣が纏わりつく脚を白澤に密着させるように鬼灯が圧し掛かってくる。
「鬼灯・・・っ!」
赤く拘束痕のついた両腕を必死になって伸ばして、白澤は鬼灯を押し退けようと踏ん張った。もとよりそれは無意味なことで、下肢に熱を感じて白澤は震え上がった。ぶわ、と増えた水量に途端視界は歪んだ。
もう、戻れない。
それは白澤の脳裏に過ぎった言葉であったか、鬼灯が確固たる意思によって口に乗せた言葉であるのはわからない。
ただ、突き抜かれる激痛の最中、白澤の胸に落ちる暖かい雨は尽きる事のないものだと、そう感じた悲しみの中、白澤は意識を失った。
赤と白が綯い交ぜになって汚れた下肢を放り出して、白澤は漸く拘束の取れた腕を瞼の上に乗せて瞳を閉ざしていた。申し訳程度に、破かれた白衣が乗せてある白澤は無言のまま、隣に片膝を立てて座り込んでいる鬼灯の背中を感じ取っていた。
「ごめんね、鬼灯」
突然開かれた白澤の口から紡がれた謝罪の言葉。
その意図するところを鬼灯は知っている。それ故にただただ、鬼灯は口を閉ざしていた。
「ごめんね、・・・っ」
ぼろぼろと零れ落ちる涙を掬うように両眼を覆って泣く白澤の手の甲にそっと鬼灯は己の手を重ねた。鬼灯と白澤、誰にも気付かれぬ様にひっそりとどれほど深く想いあっていても、互いに渇望する唯一を、決して許されぬ恋をしているのだ。
二人を嘲笑うかのように、二人の願いの残骸は虚しくも残酷に、白く乾いていった。