境界線の向こう側
※武藤家にいますが、「昌幸」標記です
秘密を知ってしまった、だから囚われたまま、忘れられないのだ。
平生、嫌な笑みを作って人を嘲笑するかのような態度しか知らなかったものだから、あの時の出来事は、今でも鮮明に自分の記憶に残っている。
いつも見ていた掴めない笑みよりも、今ここにある険しい表情よりも何よりも、あの激昂した姿が、忘れられない。
あれは、彼の唯一他者には隠された部分、隠し通さなければいけなかったものだったのだ。
偶然であれ、左近はそれを知ってしまった。
思い出せば、まだ時節の穏やかな頃合いのことだった。武田が滅びるずっと前、武田の頭領として遠く名を馳せた信玄が身罷ってそう間もないころの、小さな戦でのことだった。
国境近くの小競り合いに過ぎないはずだった。勝頼が出るまでもないという親類衆の提言から、より戦場に近い真田家が赴くこととなった。当主真田幸隆は長く体を患っており、跡を継いだ兄と、その弟、そして自ら志願した三男で他家の養子となった武藤昌幸、後の真田昌幸も共に赴くこととなった。
幸隆の親交のあった老臣を筆頭に、勝頼と年の近い家臣らは外様でありながら、武田に深い忠誠を誓う戦上手の真田ならばと太鼓判を押して送り出した。
その折に、勝頼は、彼らに、あれこれと様々な心付けを送り、盛大に鼓舞した。丁重に辞退するものの、半ば押し付けられた豪奢な具足や陣羽織に苦笑を零しつつ、ある程度、失礼にならないほどに与えられたものを用い、その他は慣れ親しんだ自前のもので戦準備を揃えた。出立の前、昌幸に勝頼の手ずから渡された懐刀は、ひっそりと仕舞われている。
その一方で面白くないのは提言した側であるはずの親類衆である。信玄の存命から花々しい戦功を上げ、覚えめでたく寵愛された真田の一族を、これ以上のさばらせるわけにはいかないと、事実、勝頼は親類衆より若い家臣を登用している。殊の外、末席に座り自らは一言も発しない真田の三男によくよく声をかけ、話しを聞いた。これ以上は罷りならないと、彼らの兵だけでは手数が少なく不安だと勝頼を捲くし立て、結局は親類衆が数名、家臣を引きつれて後衛に回ることになった。
とんでもないと、唖然としたのは真田の衆である。そして、余計なことをと爪を噛んだ。皆が皆ではないものの一部の年老いた親類衆から、目の敵のように忌々しく思われていることを、真田家はよく理解していた。それは父幸隆の頃より長く、その息子たちも父にいい聞かされるまでもなくいつの間にか自然と知っていたことだった。故に彼らは、己らの立場をわきまえ、軍議に呼ばれないことも、例え呼ばれて末席に申し訳程度に坐して何一つ口を出さないことを暗黙の了解として徹底されていても、声高に恨み言を言ったりはしなかった。親類衆よりも頭一つ大きく戦功を上げながら与えられる報酬が微々たるものであったとしても、同じであった。
それが、勝頼の代になって大きく変わりつつあった。それは、武田の内部に亀裂を生むことになることも、承知していた。危うい、と。故に昌幸は勝頼と距離を取ることを選んだのだ。悲しむ勝頼を、無理矢理はね退けた。昌幸は父と親交のある高坂とともに口うるさく進言したことがあった。
「年が近く気心知れる中であることも、勝頼さまが若い家臣衆を重宝してしまうのはわかります。けれど、それでは親類衆はないがしろにされたと憤り、武田の中に亀裂を生むでしょう。今はそれではならぬのです」
同伴した土屋昌恒もこくりと頷いた。けれど、と勝頼は酷く悲しげな表情で、首を振る。
「武勲に合う褒章を与えることの、それのどこが成らぬのか」
勝頼のその無言の意見は手に取るように、痛いほどよく判る。けれど、それは許されぬことだ。。
一国の棟梁として、勝頼は若かった。若く、賢く、そして、公平だった。正式な跡取りとされなかったことが、ますます彼を追い詰めて行く。
高坂に諫言され、勝頼は一応は納得したものの、その夜一人の部屋に昌幸を呼んで、性急にその細い体を腕の中に抱きこむと、勝頼は顔を下げたまま、呟いた。
お前はよくやってくれている。それに報いたいと思うことは、許されぬことなのか、と。昌幸は答えに窮した。勝頼は優しすぎた。公平と公正を求め、それは人の上に立って命のやり取りをする身にあっては恐ろしく愚かなことだ。ふるり、と身体を震わせて、でも、この優しさに幾度となく救われている昌幸はそっと、頭を撫でやった。答えの返る問いではないことを、勝頼自身承知していたのだろう、そのまま何も言わず、互いに口を閉ざしたまま、時だけは無情に過ぎて行く。
そして、いま戦場にあって、昌幸には勝頼を憎む気持など一切なかった。
ただ、「どうして」。その問いだけが血の上った頭をめぐり、感情に激しい波を打たせた。
ただの小さな小競り合いだった。隣国諸国が信玄の死を知って国を攻めてきた、それは昌幸にとっては想定の範囲でのことで。もとより、死の隠匿など不可能に近いと解っていた。案の定、それを確かめるかのごとく、押し寄せた急ごしらえの兵などおそるるに足りなかった。ただ、後衛としてやってきた武田家譜代の家臣が好き勝手に真田の兵に命を飛ばし、戦況を混乱させさえしなければ、容易に勝てる戦であった。あちらも勝つなどとは毛頭思っていなかっただろうに、長兄信綱は強く軍配を握った。そして、告げられる撤退の二字。血気盛んな昌輝も此度ばかりは、と渋々陣を引き払った。劣勢の知らせは勝頼のもとにも届いているのだろう。それが、昌幸には不甲斐なく、そして申し訳なく感じた。甲斐に帰国する準備の手が重く、溜息を零す彼に突如伝令より一報が入り込む。それに、昌幸は耳を疑った。
「勝頼さまが、参陣なされると・・・っ!?」
深々と頭を下げる伝令は肯定を返す。
なんと馬鹿なことを、と昌幸は頭を押さえた。双方痛み分けとして真田と敵軍は戦場を引いた。領土も取られなければ、条件を付加されたわけでもない。それは戦死者を出しておきながら、なにも得られなかった、戦として真田にとっては恥ずべきことであったが。
その後すぐに武田のは旗差物と、軍勢が見えてくる。
――勝頼、だった。
本陣に現れた勝頼に、信綱は不甲斐なさを謝罪し、頭を下げたが、勝頼は兄弟の無事を知ると、微笑んで、構わないと首を振った。
その合間に割って入ったのが、昌幸だった。具足を中途に脱ぎ捨てた、あられもない姿で、昌幸は勝頼の前に立つと、その胸倉を鷲掴んだ。
周囲がどよめく、長兄と次兄が、昌幸を叱責する。随行していた高坂も、落ち着くようにと昌幸を制止させるも、無駄であった。
「アンタは、なにをかんがえてるんですかっ!」
勝頼は厳しい眼光で見上げてくる昌幸に、目を丸くさせている。
「何をしにこんな僻地までのこのこやって来た!」
打ち首を命じられても仕方のないほどの、暴言だった。年の若い家臣は一様に青ざめている。
やめろという兄たちの声も、昌幸には届かない。ただ、お前の助けになりたかったのだ、勝頼が、泣きごとのように答える。
「・・・っ、この!大馬鹿者!いい加減、理解しろ、アンタと俺は違う!」
ぐぐ、と顔を近づけて、昌幸は吠えた。
馬鹿なことを言っている、と昌幸の煮えくりかえる感情のなか、僅かに冷静な場所が、悲鳴を上げる。
その一方で幼い心が叫ぶ。違うのだと。もう、昔とは違う、違ってしまった。
ともに戦場を駆け、競い合い、時には生きている事実に安堵し、涙する、貴い時間はもう訪れない。勝頼は一国とそこに生きる人間の命を背負う責任がある。そして、自分は彼を守る、ただ一つの駒でしかないのだ。自分が死んでも変わりは数多存在する。けれど、貴方が死んでしまえば。昌幸はぎりりと歯噛みした。
「捨てろ!割り切れ!忘れてしまえ!」
わかったか、と詰め寄る昌幸に、勝頼は首をふる。それがなお悲しくて、痛々しくて、昌幸は泣いた。ぼろぼろと止まらない涙をそのままに、どうか、と願いながら。けれど優しい人は諾と首を縦にはふってくれなかった。
情けなくて、不甲斐なくて、昌幸の心と頭はぐちゃぐちゃになっていく。
それからの記憶は、あまりはっきりしない。打ち首を免れたことは僥倖のことだと言われても、きっとかれはそうしないだろうと心のどこかで諦めにもにた思いを抱いていた昌幸にとってはどうでもよいことであった。
その一連の騒ぎの中、左近は昌輝に付き従い従軍していた。なんのことはない、ただ気ままに武田の客将として勝頼も認めていたため、手持無沙汰に混ざることを決めただけであった。
昌輝と並んで、本陣に顔を出した勝頼を迎えようと陣幕を上げて足を踏み入れた時だった。目に入ったのは、信綱が勝頼に頭を垂れる姿。
御足労、誠に感謝しております、と謝辞を述べ深々と己の至らなさを謝罪する姿は、左近にとっては止めてやりたいほどのものだった。事実、信綱は幸隆より跡を継いで、よくよくやっていた。左近も流石と、舌を巻き、信玄が真田を重宝する理由もわからないではなかった。彼らは、己らが伸し上がって大国を統べるというよりも、小一国をもち他の大勢力の下につき助力することで力を大いに発揮できる、そんなように思えた。
此度の戦とて、信綱らに落ち度はなかった。それは誰の目にも明らかで、左近は内心酷く憤慨した。顔はむっすりとしているのは常のことだったので、顔に出ていてもさほど変わらなかっただろうけれど。
そして、隣の昌輝も兄に習い声をかけた時、飛び込んでくる者がいた。昌幸だった。
具足の上半身だけを脱いで、小袖を着崩した姿のままで、おおよそ大国の当主の前に出る姿ではない。ぎょっ、と左近らは目を見張ったが、昌幸は勝頼のことしか視界にないのか、兄二人に比べて小柄で線の細い体が、勝頼に食ってかかった。
「アンタは、何を考えてるんですか!」
高めの声が、怒号となって勝頼に向けられる。無礼な振る舞いに周囲は一時騒然となる。怒りに顔を赤く染めるものや、蒼褪めて狼狽するもの。そのなかで激昂する彼の姿は、いっそ清々しいほどに見事だった。
一人の人間として、彼は勝頼と対等に立っている。それが、彼の最大の魅力。彼の前では地位も名誉も紙切れ一枚ほどの価値もない。真っ直ぐに人を見る瞳。
左近は、初めてであったときから、それが恐ろしく、そして恐ろしいよりも深く、焦がれた。
いま、昌幸の瞳は勝頼を映している。彼だけを。愚かにも、人一人の名誉と誇りためにのこのこと戦場に現れた男を。彼自身の名誉も、誇りも、きっと彼にとってはどれほどのものでもない。彼の名誉のために傷つけられた勝頼自身の名誉に比べれば、きっと塵芥だと彼は快活に笑い捨てるだろう。そう評価されていてもそれに気づかず己の慕情のまま彼を傷つける勝頼が、、なお一層羨ましく、妬ましかった。今、彼は、勝頼のために怒っているのだ。勝頼のために、彼が、これ以上無様な姿を見せないように。彼が、仮初であっても武田の当主として憂いなく在れるように。
「止めないんですかい?」
左近と同様に、二人を見眺めているだけの昌恒に声をかける。
あんただって、その目は如実に語っていたが、敢えて気づかないふりをする。
自分の行動は云ってしまえば恥ずかしくも年甲斐のない嫉妬心から来るものだ。けれど、二人とまるで兄弟のように育った彼が、二人を止めないことは、些か気に懸かる。弟分の昌次さえ、昌幸の行為をやめさせようとしている。
「少しはさ、頭が冷えるだろ」
それは誰を指しているか、推しはかりがたい答えだった。左近が黙っていると、昌恒は苦笑を零しながら、視線を足元へと落とす。組んだ腕を、そのままに、足もとの小石を蹴るような、仕草だ。
「好きで好きでたまらない、大事な奴に怒鳴られればさ、思い直すだろ」
ああ、と得心がいく。流石だろ、と自慢げに笑みを浮かべる姿は、けれどもどこか悲哀に満ちている。
彼もまた、勝頼とは一線を画すと決めた人間なのだ。かつてのように、三人が並んで笑い合って槍や刀を振るうことはない。二人はただ一身に、勝頼のために身を賭すのだろう。その絆に、勝頼は入り込めない。唯一対等に立つ、立つ事の出来る、彼からの否定と拒絶の言葉。
言葉を失い絶句する勝頼をどん、と突き放して昌幸は乱暴に具足を鳴らして早足に、陣をでていった。陣幕の前で振り返り一礼をして去って行くまで、ずっと、昌幸は視線を落したままで。
突き飛ばされ尻もちを付いた勝頼を、周囲は心配して駆け寄る。その中にあって、昌恒が勝頼を抱え起こしながらちらりと視線を左近によこした。それに答えたわけではなかったが、ここにいる必要はないと背を押された気がして、左近は静かに、彼の後を追った。
陣から少し離れた木々の生い茂った場所に、ひっそりと彼はいた。背を向けて、俯いて。その肩は遠目に見ても確かに震えている。
左近は、息を飲んだ。そして気配を絶っていたくせに、その動揺からか、左近は足元の小枝を踏んだ。
ぱきん、と軽い音がして、びくりと肩が大げさなほど跳ねあがる。戦時中では、気配や物音に人一倍敏い人だった。戦時以外では、そう、振る舞っていたのかもしれない。彼に、感づかれていることは、判った。けれど、彼は一向にこちらを振り向こうとはしない。暫しの間をおいて、左近は、彼の名を呼んだ。答えはなかった、が昌幸は左近に背を向けたまま、血に、泥に汚れた袖で何度も目をこすると、左近に向き直る。その眼光は鋭く、怒りに満ち満ちていた。
なんのようだ、声にはされなかったが、確かに、昌幸は今、目の前にいる左近に対し、憤怒や嫌悪といった感情を抱いている。曝したくは、無かったのだろう。自分はそれを、慕情とか慈しみといった美しい感情の名を語る醜い嫉妬心で、暴いた。
けれど、昌幸は、見るな、とも、立ち去れ、ともいわなかった、ふい、と横を向いて、むっすりとしている様はまるで年端の行かぬ子供だ。線の細い横顔、丸みを帯びた瞳はその年齢を伴って、どこか女性的だった。目尻が仄かに赤く、少し、泥汚れが付いている。左近は、目を反らせなかった。心、奪われた。水膜につつまれ鈍く光る瞳が真っ直ぐに射抜いてくる。そこで漸く左近は先刻までの沈痛な叫びはなりを潜めていることに気づく、この赤くどろどろに溶けて燃えている感情は、自分に対するものだ。彼は、見られてはならなかった。自分の、勝頼に対する感情の一片を。温かく、柔らかく、それでいて、燃えるような恋、だった。勝頼がきづかせたくて、昌幸が目を逸らし続けていたもの。昌幸は勝頼の想いを理解していて尚、突き放したのだ。彼と唯一対等に、並んで世を、国を、行く末を見ることのできる存在でありながら。それは、
なんとも、かなしい。
「なにじろじろ見てんだ、訴えんぞ。」
鮮烈な光を放ち、他者を魅了する彼を前に、左近は、口をもだす。
彼の泣き顔が、今でも忘れられない。
罰、なのか、と。左近は目を伏せる。
彼の秘められた、ひたすらに隠された心を見てしまった、自分への。
いまも、自分は、あの薄暗い木々の中に立っているのだ。