彷徨う残骸


ほうほうの体で漸く彼女は上杉にたどり着いたのだろう。
左足に添え木を捲いて、漸く立っている少女には最早、あの頃の忍びとしての面影はない。
彼女は一介の娘として生きる道も、忍びとして再び武器を握ることもないのだろう。二本の指を失った左手を幾重にも包む布はどす黒く汚れ、震えている。
故に徳川は、真田の最後の忍びの息の根をとめることを躊躇したのだろうか、否、例え当代の将軍が恩赦をかけたとしても駿河翁がそれを許すはずがない。それほどに、徳川は西軍に組し、後に大坂にのぼった真田親子に憎しみを抱いている。愛憎、とも呼べるのかもしれない。何度も手を伸ばし求め続けた者は、その最後の一瞬すら鋭く牙をむいて、家康の首だけを見つめていた。
少女は懐から一束の書状を取り出した。折れ曲がり、汚れ果てた紙を、まっすぐに上杉主従へと突き出した。
幸村さまの、
誰に、ともなく少女は早く受け取れと言わんばかりに勢いをつけてもう一度二人の前に突き出す。けれど兼続はその文を受け取ることはしなかった。兼続が受け取らぬならば慶次がしゃしゃり出ることは許されない。もとより、慶次も兼続と同じく口を引き締めてその文を睨んでいるのだから。
わたしにはうけとれないよ、くのいち
子供に諭すときのような優しい声色には悲痛な兼続の心情がありありと滲みでていた。
私が教え、あの子がそうあればと乞い縋ったものを、私はいとも簡単に捨てた。
ちがう、あんたは捨てたんじゃない。選んだのよ。
、ありがとう。けれど私はわかっていて選んだんだ。選ぶことは同時にそれ以外を捨てることだと。
きっぱりと言い放った兼続の言葉に、ふ、とくのいちは目を伏せた。そしてしばしの逡巡の後、視線を慶次へと向けた。
あんたは?
受け取らないのか、読まないのかと、言外に告げると、慶次は苦笑し、頭を掻いておどけて見せる。
この御仁が受け取れないものを、俺が横からかっさらう理由はないさ。
慶次はそのことについて、多くの理由を語らなかったが、くのいちはそう、と声を落として握っていた書状ごと、腕を下した。

、伊達の坊やも、傭兵かぶれも、みんな、いらないって。

彼らが一様に首を振ったことを「いらぬ、」と受け取ったくのいちにそれは違うと兼続が否定しようとくちを開いて、やめた。結局はそのとおりなのだ。
自分達は怖かった。
傍からすれば自分達は幸村を捨てたのだ。
生きろ、死んではならぬ、お前の生きる道を示してやるから。そんなものはただの耳触りのいいだけのたわごとだ。決して幸村には届かぬと判っていて、自分が救われたいがために告げた言葉の羅列だ。
そう、そして結局は、最後に幸村に捨てられたのは私たちなのだ。
私と、そしてこの太平と言う毒に澱んだ時代に、幸村は絶望し、切り捨てた。
そこには一切の躊躇はなかった。
私達は同じくありたかったのだよ、兼続はひとり涙を流す。くのいちの前で、主を目の前で失い生きるしかばねとなった少女の前で、恥もなく。
幸村は兼続たちのそれらの行為を拒絶することも、受け入れることもなかった。なお悲しいことだ、と歯を食いしばる。

ひどい、

懐かしい声は何一つ変わっていない。
しかし震える声は確かに兼続を責めていた。

あんたたちはひどいにんげんよ。

その言葉に、兼続は落ちる涙をそのままに、そっと顔を上げた。
憎しみと悲しみに顔を歪めた少女がつよく、兼続を睨みつけている。
ごうごうと音を立てて燃える業火の如く、鈍い光を放つ瞳から目をそらすことができない。

あんたたちがそんなかなしいかおしたら、わたしはだれをにくめばいいの、

怒りに染まる瞳に反した静かな声だ。
そっと、腕は下ろされる。強く風が吹いて一点の墨が滲んだだけの紙切れはいとも簡単に風に飛ばされていってしまった。
何処までも悠久に広がる青の下、一粒の涙が転がり落ちた。








配布元:不在証明