文でも書いておこうか、と幸村は嗤って筆を執った。
くのいちと佐助は姿勢を正して、その背中をじっと見つめている。
二言三言書いては手を止めて、幸村はそれを宵闇の中、唯一煌々と照らす灯りで燃やしてしまう。
じじ、と微かに音を立てて炭の燃えるにおいが鼻孔を掠めた。
静かな夜であった。
勝者でありながら頭を下げて徳川との和議を結んだ愚かな母殿が、再び戦支度を始めた頃合いであった。次こそ己は死ぬだろう、と幸村は先刻、二人の年若い忍びに告げた。
まあ、ただでは死んではやらぬがな。そう続けて喉の奥で引きつった声で嗤う姿に、二人は何も言えなかった。
さて、できた。
幸村の背に、言葉も思考も違いながら、結局は同じ事を願っていた二人は、は、と我に帰る。
いつの間にか目の前に座っている幸村の表情は逆光でありながら、その僅かな光に照らされて、この世のものとは思えぬほど美しかった。
折りたたまれた紙の束を、そっと、幸村はくのいちの掌に載せる。その意味するところを悟った瞬間、くのいちは幸村から手渡されたそれを振り払い、立ちあがって、叫んでいた。
いや!そんなの知らない!
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を止める術など知らず、くのいちはぎゅうと目をつぶった。そうすれば、見たくないものは見えない。落ちる涙も、止められた。
くのいち、
しかし、くのいちはおのれを呼ばう主の声だけで判っていた。幸村が、ひどく悲しげに微笑んでいるのを。小介は、顔を背けた。おれも、いやです。蚊の鳴くような声で、拒絶した。
そのようなことをいってくれるな、そなたらにしか頼めぬことなのだ、
別に、そんなの、才蔵にでも佐助にでも頼めばいいじゃない!
だめだ、あれらは私が殺す
だったら、わたしが、
ならぬ
ぴしゃりと厳命されて、くのいちはずきずきと悲鳴を上げて痛むこめかみを無理やり黙らせて、強く唇を噛んだ。冷たく突き刺さる空気は、すぐさま解かれ、柔らかな指先がくのいちの両手を包む。
わかっておくれ、年若いそなたたちを道連れになどできない。
、なら、たいすけさまだって、
あれはわたしのふたつめの魂だ。ともに死ぬのは必然なのだよ
酷い、とくのいちはこころのなかで幸村を責めた。本当は口に出して言ってしまいたかったが、それをすれば、今度は本当に幸村が泣いてしまう。だから、くのいちは言えなかった。
しばらくそうしていたであろうか、小介がおもむろに立ちあがり、畳の上に放っておかれていた紙束をむずと掴んで幸村を見降ろした。幸村は嬉しそうに顔を綻ばす。
頼まれてくれるか、
はい、と子介は答えなかった。乱暴に腕で両眼を拭うと、深々と一礼して、小介は、足音荒く部屋を後にした。それを見送って、幸村はくのいちの方へと視線を向ける。伺うような悪戯な上目遣いの瞳に、ああ、このひとは、ずるいひとでもあるのだ、と思い返す。
小介が握り締め、おそらくくのいちが届ける書の行き先は、存在しない。
誰よりも巧く嘘がつける主の、最初で最後の下手な嘘だった。
配布元:不在証明