彷徨う残骸

後生大事に懐に仕舞いこんでいた紙の束は、泥と血に汚れ、あのとき微かに鼻腔を掠めた甘味の含んだ香りは跡形もなく消えていってしまっていた。
小介は墨の滴る跡しか記されていないそれを、おのれの命よりも尊び、抱きしめていた。

漸く目的地へと辿り着こうとしていたとき、小介は突如足を止めた。
同じように疲弊し、口数少なくただ黙々と前を駆けていたくのいちは怪訝な顔をして立ち止まり振り返る。不衛生な布で止血しただけの左手は腐臭を放ち、それでもくのいちは右手にしっかりとくないを握っていた。
小介は幾重も油紙に包んだ、けれど結局は汚れてしまった幸村からの書を懐から出して、くのいちに差し出した。くのいちはゆっくりと近づいて、くないを落とすかわりに小介からそれを受け取る。
紙の擦れる乾いた音がした。

なんで、

くのいちはぎゅうと胸に抱いて、視線を落として、小介に聞いた。
数々の追っ手を振り撒き、時に体の一部を持っていかれても、一度とて、他者の目に晒さぬ事のなかったそれを、小介はくのいちに渡した。くのいちが幸村から手渡されるはずであったそれを、最後に見たのはあの夜のことだ。けれどくのいちは自分が持つべきだと小介を責めたことはなかった、どこか、そうするべきであるとわかっていたからかもしれない。ゆえに、小介の唐突な行動に、くのいちは眉を寄せた。
この紙の束を、裏切り者どもに見せて、後悔させてやる、
戦場を後に、鈍い刃先のように目を光らせてくのいちは血反吐を吐きながら、北上した。
徳川の忍びの立ちはだかる駿府を超えて。二人は其処で指や腕を失ったのだ。
幸村さまの死を、綺麗なだけの思い出にさせてたまるか、
大粒の涙を零し、烈火の如く憎悪を顕にするくのいちに、小介は頷き、長い月日をかけて伊達領までやってきたというに。
突然足を止めた同朋を前に、くのいちは声を張った。

アンタは、憎くないの、
憎い。
なら、アンタも、
でも、俺を見たら、アイツらはきっと堪えられない。

ぐ、とくのいちは視線を小介の足元に落としたまま、口を噤んだ。
ほら、お前だって俺を見れないだろう、と小介は力なく笑う。
幸村の幼少に生き写しのようだと笑ったのは誰だっただろうか。幼い頃から使えていた三好の兄であったか、水賊まがいの十蔵であったか。

、いい気味じゃない。そうやって苦しんで、苦しんで、死んでいけばいいのよ。
・・・。
少しでも忘れてたら、殺してやるんだから。
それでも、

小介は本当は心優しい主の微笑を思い出した。
酷く悲しげに笑う姿は、いつだって小介の、くのいちの脳裏に張り付いている。
くのいちが顔を歪ませているのを知っていても、小介は首を縦に振ることはできなった。

おれは、幸村さまを悲しませたくない。

幸村さまの大切な友人を、悲しませることは出来ない、と力なく項垂れる。
彼らが傷付けば、それ以上に幸村が傷付く、小介は口には出さなかったが、くのいちには伝わったのだろう。立ち止まったままの小介に背を向けて、くのいちは木々の合間に姿を消していったのだから。

小介は強く、目を閉じる。


枝葉を揺らして三つの影が目の前に現れた。
ゆっくりと振り返る小介に息を呑み、動揺が生まれた瞬間を狙って、小介が利き足を踏み切った。







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