ゆるやかなはじまり

清正の担当する文筆家は、彼の故郷での幼馴染でもあった。
新聞記者として働きたいと東京へ出てきたものの何の因果か、清正はとある気難しい作家の編集担当者として抜擢されてしまい、丸一年が経とうとしていた。
其の幼馴染とは今世間を騒がす新進気鋭の若き天才。「橋本雅豊」という。



季節は春であった。温かな風が張るの甘い香りをつれて鼻腔を擽る。
近代文化が次々と流入し目まぐるしく変わっていく首都から北に汽車を乗り継いで辿り着いたのは田園風景の広がる片田舎であった。ふと、清正の中に望郷の思いが湧いて出た。近代化された病院や町並みにそれほど田舎というわけでもなかったが、やはり清正の住む都心から比べれば建物が密集しているわけでもなく、大きく吸い込んだ土地の香りに清正は故郷を見たのだった。
がたがたと整備のなされていない砂利道で蒸気自動車が大きく跳ねる。清正は窓の外を見た。迎えに来た男が一人、何事か話しかけてくるのに生返事を返しながら。清正が「橋本雅豊」の引越しを知ったのは冬の終わりであった。常日頃の不摂生がたたったのか、季節の変わり目の一番寒い日に清正は熱を出して倒れた。誰よりも丈夫だとおもわれていた清正の急病に会社の者は驚きはしたものの、新人の清正の担当は「橋本雅豊」一人であったから(其の一人が頗る気難しく御しきれる者がいなかったため、幼馴染だという奇縁から清正が抜擢されただけだったのだが)丁度いい休暇だと一ヶ月ほど遅い正月休みを貰い、清正は誰もいない築三〇年程の安アパートで熱に魘されながら春の訪れを迎えたというわけであった。

「橋本雅豊」は天与の文才をもった男であった。
硬質な雰囲気を醸し出す文体は、新しいものへと感け徐々に脆弱しつつあった人々に喝するものであったし、突き放した言葉回しは、せれど読むものを不快にさせることはなくむしろ引き込ませる魅力があった。そして今、彼はこれまでとは違った新しい分野の物語を執筆していた。その連作が既に幾つか短文であるが雑誌に掲載されており、「橋本雅豊」という名前と人の噂が一層の人気を呼び改めて最新作として一冊の本に纏められ出版される予定である。
「橋本雅豊」の三冊目となる本は「花前夜話」と名付けられた短編集で、男女恋愛を題材とされたものである。八つの短編はそれぞれ舞台や年齢は異なるものの男の名を「佐吉」女の名前を「ゆき」といい、二人が恋に落ちるところから物語は始まる。身分違いの恋であったり、時勢の許さぬ恋であったりと二人は抗う事のできぬ壁にぶつかってしまう。時折差し込まれる二人の艶かしい肉感的な情交は彼の高潔な文体と相俟ってより一層人々の心を掴んだ。
あの男が、と清正はぺらぺらと雑誌を捲った。故郷で警官として交番勤めをしているもう一人の男と清正、そして「橋本雅豊」の三人は幼馴染だった。家はそう近くはなかったがよくつるんでは馬鹿をやった記憶があった。主に馬鹿をするのはもう一人の幼馴染で、彼が警官をやっているなどと清正は苦笑を禁じえない。無茶をして叱られる幼馴染に苦言するのは清正で、もう一人は頭ごなしに叱咤する人間であった。親同士の仲が良かったわけではない、しかし何故か自分たち三人は日が落ちるのも構わず走り回っていた。清正は其の幼い頃から彼を知っている。なんだか擽ったい気がして、捲っていた雑誌を閉じると、何とはなしにもう一度外を眺めた。硝子のはめ込まれていない窓から入り込んだ少しばかり冷たい風が頬を撫でる。日はまだ高い。

清正が過去に思いふけっていればいつの間にか車は砂利道の半ばにある目的地に到着しており、清正を駅から運んできた無精髭の男が声を掛けて後部座席の扉を開けた。
清正は一言礼を告げるとその男にチップを払ってやった。安月給の身で、と上司に教わった社の風習を呪ったが、荷物まで持ってもらったことを思い起こし無理矢理自分を納得させた。
車が到着したのは瓦屋根の厳粛な一軒家であった。
清正は一目で名家の血筋の人間が住んでいる家だとわかった。ごみごみとした田舎に住んでいた清正にもそれくらいは簡単にわかるほどであった。
民家の居並ぶ集落から少しはなれた場所にあるその家は、青々とした生垣に囲まれており、木造の門には「直江」の表札があった。屋敷の外観を眺めているといつも何か清正の荷物を持った無精髭の男が門をくぐっていく背中が見え、清正は其の後を追った。
「遅かったな」
開口一番が其の台詞か、と清正はうんざりした。
担当者である清正が遅れて彼の元を訪れれば、彼は玄関先で待っていて横柄な態度で既に出来上がった原稿を突き出す。幼馴染と言っても彼らの間には越える事の出来ない上下関係が存在していて、清正はぐ、と堪え、彼の担当に自分をつけた上司を恨むことしかできないのであった。
濃紺の小袖に薄色を羽織って、「橋本雅豊」は立っていた。
「どこぞのお偉い作家先生様が突然引越しなんかするからだろ」
「ふん、貴様の手落ちを人のせいにするのか」
「てめぇ・・・、」
「本当のことだ」
「この・・・っ」

「おや、三成、彼が担当の加藤殿か?」

到着早々空気の悪くなる両者の間に、突如割って入るものがあった。
「橋本雅豊」の本名を呼びながら顔を出したのは栗色の小袖の十徳姿の年若い男であった。黒髪を一括りにした其の男がこの屋敷の主人であることは直ぐにわかった。そして幼馴染は彼に世話になっているのだと。
彼は重厚な声で直江兼続と名乗った。兼続は愛想の良い笑みを浮かべ、清正の来訪を喜んだ。しかしどこか暗い影の見え隠れする兼続に、清正はにこやかに声を掛ける彼の言葉に対し己の意識を上滑りする会話を二言三言続けて、兼続が家の者に呼ばれて辞すると小さく安堵の息を吐いた。
幼馴染はいつの間にか姿を消していて、兼続と入れ替わり現れたのは先ほどの無精髭の男で、男は兼続の命で清正を部屋へと案内した。
「ところでアンタはここにどのくらいいる予定なんだ?」
部屋へと繋がる廊下を歩きながら前方から届いた率直な問いに清正は腕を組む。清正が態々半日を掛けて幼馴染の作家先生を訪ねてきたのには理由があった。それは勿論、現行の打ち合わせ等のこともあったのだが、新しく出版する本の装丁の相談もあった。自分の作るものには深いこだわりを見せる幼馴染のこと、納得がいかなければ装丁だけで三日、いや一週間は掛かるかもしれない。其の辺りは幼馴染が兼続に話をつけているらしく、先ほどの挨拶の中も兼続は存分に長居してくれて構わない、と笑っていた。
「さぁ、アイツ次第だからな」
答えると男は関心のない返事をしながら意味ありげに清正を一瞥した。
なんだ、と清正は眉を寄せる。そうこうしているうちに清正は部屋へと着いた。庭先に面した障子を開けて敷居を跨ぐと、部屋は二間になっており、風呂なし六畳部屋住まいの清正には十分すぎるほどであった。
「この部屋は好きに使ってくれて構わないそうだ。まぁ、ゆっくりするといいさ」
「・・・」
「聞いちゃいねぇ…か」
清正の呆け具合に苦笑を洩らしながら荷物を下ろし、孫市はもと来た廊下を戻ろうとして足を止めた。そしてあまりの広さに清正が動けず立ち尽くしている清正の背中に向かって、男は今更ながら自己紹介する。
「清正さんとやら、俺の名前は雑賀孫市。賭博で背負っちまった借金を肩代わりしてもらう代わりにここで働くただの雇われ者さ」
しかしそれすら聞いているのかいないのか、仕方ない奴だと困ったように笑みを零して、孫市はまだまだたっぷりと残っている今日の仕事を片付けるべく、足早に己の持ち場へと向かっていく。日は当に暮れていた。