湿り気の薫る筆あと

「佐吉」と「ゆき」は決して結ばれることを許されない二人だった。
別つ定めか共に果てるか、二人は追い込まれそしてとうとう一つの道を選ぶ。時にそれは別れであり、共に果てる最期であり続けた。それはある人には幸福な結末に見えるかもしれない、あるいは身勝手な自己満足だと憤る読者もいるかも知れない。けれど、どこか物悲しい物語に読者は引き込まれ、そして愛することと生きることの重さを訴えかけられるのであった。
清正は膨れた腹と疲労困憊を理由に、畳の上に敷かれていた布団の上に寝転がると荷物の中からぼろぼろに擦り切れた薄い雑誌を取り出して、折れ目に指を挟んで開く。それは自社の雑誌に掲載された「花前夜話」の第一作であった。
この話で「佐吉」は書生であった。「佐吉」は世話になっている大学教授の幼妻「ゆき」に恋をする。「佐吉」は初め幼い頃に死に別れた母を「ゆき」に投影する。しかし高まる想いを御することができず、「佐吉」はとうとう恩師の不在に「ゆき」を手篭めにしてしまう。恋に狂った若い男と男に惹かれつつ抗う貞淑な人妻のまぐあいが、清正の頭に浮かぶ。結局二人は想いを伝え合うこともせず、「佐吉」は恩師の奨めで他の女と婚約しを去り、その後、「佐吉」は「ゆき」の出産を知る。それが己の子であろう確信と狂おしいほどの「ゆき」への愛を胸に病でなくなるのだ。
「佐吉」の気持ちが、清正にはよくわかった。清正は幼い頃両親を亡くし、商家を営む養父母に育てられた。清正の初恋は養母であった。けして思いを伝えられぬ孤独と辛苦を、清正は「佐吉」に自分を重ね合せる。
そしてふと思い出す。自分たち三人はみな両親の愛に満足できる家庭ではなかったことを。文筆家となった三成は父親を亡くしてからは奔放な母親と不仲であったし、警官となった正則は母親がいなかった。そして自分も両親を亡くしている。境遇の似通った三人が身を寄り添うのは必然のことであった。
其処まで考えて、清正は身のうちを焼き尽くすほどの熱を感じ、じっとりと汗をかいていたことに気付く。この話を読むたびに、未だ燻ぶる初恋にどうしようもなく昂ぶる感情を持て余すのだ。それでも清正は時折、雑誌を広げては読み返す。少し頭を冷やそうと清正はシャツの前を肌蹴、風呂場へと向かった。



廊下に出ると屋敷の中はしん、と静まり返っていた。
周りに民家もなく、読みふけっているうちにいつの間にか夜もだいぶ遅い時間だった。清正は軽く頭を冷やすだけだと言い訳して、水を求める。できれば体を軽く拭いて夜着に着替えたいとおもいながら、清正の部屋からはだいぶ遠い風呂場に漸く辿り着いた。
手ぬぐいを冷やして体を拭いて、桶の水を頭から被る。其処で着替えを忘れたことに気付き、渋々汗の吸ったシャツにもう一度腕を通して、ズボンも履く。
溜息をつきながら部屋に戻る途中、台所に明かりが燈っているのを見て、足を止めた。清正は無意識に其の光に足を向けた。無意識でありつつも足音を殺して、二つほど部屋を挟んだ障子の向こうから土間を窺ってみると、そこには孫市がいた。
「もっと、いれて」
「駄目だ」
俺が兼続に怒られちまう、孫市は呆れ顔で仄かに湯気の立つ湯飲みを持っていた。
其の陰に隠れて、紅梅色の夜着に身を包んだ妙齢の女性がいた。艶やか黒髪は短く切り揃えられ、肌は健康的な白さである。すらりとした指先が孫市の手から湯飲みを受け取ると、すぐさま口許に近づけて、娘はごくごくと喉を鳴らしてあっという間に飲み干してしまう。それに孫市は苦笑して、急いで呑んだためか、口許から顎、そして首筋へと垂れた透明な雫を舌先でなぞってやった。鼻に掛かる甘い声を小さく零すのに、清正はどきりとした。孫市は首筋から顔を離すと衿元を押し上げ覗かせるように肌蹴ている着物を調えてやり、目を擦る手を止めさせて、部屋に戻れと促す。けれど嫌だと娘は駄々を捏ねる。
「喉渇いたーっていうから砂糖水も飲ませてやったろ?はら、いいから早く寝ろ」
「やぁ、です・・・」
もごもごと口ごもる様子は明らかに睡魔に負けている。
それでも腰掛けて伸ばした脚をじだじだと振っては、首を横に、目を擦っていた。
「だって、つぐ兄さま、こわいことする、から」
「あ〜・・・そりゃ、三成の所為だろ・・・」
「みつ兄さまはわるくない!」
眉を寄せて不機嫌に口を尖らせる娘の目線に合うように孫市はしゃがんで頭を撫でてやった。清正のほうからでは孫市の背で見えないが、正面に回っている孫市には彼女が駄々を捏ねる理由がはっきりと見て取れた。

「仕方ないんだって、三成が変な客を呼ぶから」

その一言に、清正はどきりとした。三成が呼んだ客というのは正しく自分のことであろう。二人の話の流れから察するところ、兼続は清正の来訪を快くおもっていないということだ。それは兼続が清正ににおわせた暗い影で納得がいった。しかしそれが彼女に対する「こわいこと」に繋がるのか、清正にはいまいち理解できなかった。
むっすりと口を閉ざしてしまった娘の手をとって、孫市は仕方ないと笑みを作った。
「じゃあ、今日は三成のとこで寝るか?」
「・・・だって、みつ兄さま、夜はおしごとあるって」
「俺から頼んでやるから」
「、ほんとう!?」
途端キラキラと目を輝かせて娘は立ち上がる。孫市が屈んだままの其の一瞬、目に止まったものに、清正はぎょっとした。捲られ、肌もあらわになった両脚の合間より伝う白濁。にこやかに孫市が立ち上がるのを今か今かと待つ娘の下肢に、孫市は手を伸ばし傍にかけてあった手拭で其の白濁を拭きとりはじめた。
「じゃあお兄様のところにいく前に綺麗にしとかなきゃな」
「はやく、孫市どのっ、はやくして、ください!」
弾む声と男の無骨な手で下肢を拭き取られている不可思議な娘の姿に、清正は目を瞠ることしかできなかった。彼女が何故、三成と兼続を「兄」と呼んでいるのか、そして彼女自身の素性。結局娘が孫市に手を引かれ姿を消しても、清正は其の場所を動くことが出来ずにただ、立ち尽くしていた。