氷中花の見る夢

※「幸村」表記




疾く、
肘掛に頭を預けて豪奢な着物を畳一面に流して寝転がる女城主に背を向けて、幸村は押し黙っていた。鈴の音のような声がりん、と鳴って幸村の手を急かす。自分本意の命令に、全く答えるつもりもなく、幸村は無意識ながらも殊更ゆっくりと肩から小袖を落とした。
背後で感嘆の息を漏らし、目を見開いているであろう女を、小さく嗤う。
酔狂な女だ、とおそらく基次が耳にすればお前もだ、と間髪いれずに叩かれそうな暴言を吐きつつも、彼女の寝所に毎晩足を運ぶことに辟易している幸村は背中一面に流れる黒髪をそっと掻き寄せて、淀から全面が見えるように光の下に坐した。
ぱちん、と扇が閉じられて、淀の気配が近づく。
それに応じるかのようにそっと幸村は眼を伏せた。
淀の細く冷たい指先が幸村の背を、背に深く刻み込まれた歴戦の傷跡をなぞる。ぞくり、と肌が泡立つ。それは拒絶か、ただの反射に過ぎないものか。しかしいつまで経っても慣れない感触に体が強張る。それを見越した淀がくすくすと忍び笑うのも腹立たしい。が、これも一瞬のことで、体に回る細腕に、幸村はされるがままであった。

知っておるか、幸村。後藤基次の体には五三もの傷があるという。

言われずとも、とは答えなかった。幸村からの応えが無いことを知っていて、淀は言葉を続けた。
ならばそなたにはいくつの傷があるのだろうか、もっと良く見せておくれ。
甘えた声をあげてまとわりつく淀に、幸村は帯に留まった小袖を更に脱いでやろうと手をかけるが、それは淀に阻まれた。代わりに手の力を緩めると、淀の細くそれでいて艶めいた指先が幸村の肌蹴た小袖の裾から入り込んでくる。年の割には引き締まったと揶揄される腿をくまなく執拗に撫で上げられる。
その手から無意識に逃れるために身を捩れば、それすら淀には戯れとなるのだろう。白く滑らかな指先がそっと、幸村の、幸村自身でさえ触れたことのない場所へと潜り込んだ。
「っ…う、」
耐えるような声になってしまうのは致し方ないことだった。いっそう笑みを深めて指先で遊び始めた淀は、この遊びをいたく気に入っている。

なれど、幸村、おまえの傷は美しい。

較べるべくもない、と今度は舌先が幸村の肩に覆い被さり、深く引き攣れた傷跡をなぞった。
これは小田原で付いたのであったな、あの愚かで薄汚い狐のためにわざわざ槍をとってむかったのであろ、
誰を示唆しているのか、判らぬほど幸村は幼くもなければ無垢でも無知でもなかった。
けれど怒りも悲しみも、幸村には浮かばなかった。たとえ、今背後で淀が貶める相手が親友と呼ばれる間柄であり、幸村の良く知る人を一族郎党もろとも殺した人物であってもだ。それが淀には少々面白くなかったのだろう。下肢を苛む手に力を込める。
、もっときかせておくれな、幸村、この傷はどこでついたものかえ。ああ、ああ、なんと美しい、
恍惚とした笑みを浮かべ声を甘やかに上げていた淀であったが、ぴたりと顔を無表情にすると、冷たく刃のように鋭い声に一転した。
この美しさをしるのは、わらわだけで十分じゃ、
そうであろ、と同意を求める淀に、幸村は眉ひとつ動かさず、微動だにしない。
こんな傷もの、欲しいと思う男などおるまい。
日焼けのしていない、けれど健康的な色みをもつ背中に淀は頬をすりつける。甘えている猫のような仕草だ。
幸村は淀にされるがままに放っている。しかしその心の中には思うことが無いわけではない。


かつて、この刃傷が並んだ体を愛しいと目を細めて笑った男がいた。所狭しと傷をおっても泣きごとひとつ言わずに戦場に立ち続ける幸村をいい女だと笑い飛ばした男がいた。其の姿形すら曖昧になっていく己の記憶が、何故か、酷く、厭ましかった。
戦うことの醜さも惨酷さもこれっぽちとして知らない生まれた瞬間から戦場など碁盤に過ぎなかった男だった。
可哀想なひとだった。
少なくともこの時代に男として生まれ、成り上がりの名前だけとはいえども武家の家に連なる人間として生きるには、彼はあまりにも稚拙で傲慢であった。それは彼だけのせいではないことを重々には理解していたが、ずっとかわいそうな人間だと思っていた。そのひとが、最後だけはおのれで腹を裂いて死んだと聞いた時、幸村は何も言うことができなかった。どんな表情をすればいいのか、泣きだしたいような笑ってしまいたいような、けれど結局どうすることも出来ずに立ち尽くすしかなかったのだ。
その元凶ともいえる女を目の前に、しかし幸村の感情には一切の波などなかった。
それを悲しむべきか喜ぶべきか、幸村には判らない。考えるべくもない。
ただ、己の人生の一時の中で、女であれば忌むべき刃傷を褒め称えて愛した男がいたことを、幸村は涅槃の先でも忘れぬのだろう。






配布元:不在証明





着地点を見失った結果、淀さまが噛ませ犬に・・・。
なんとなく秀次は戦にでてないよー、という書き方になってしまいましたが秀次は結構強かったようです。そんなところも勝頼テイスト(?)
そんな秀次も書いてみたいのですが、どうでしょう。
これ、実は政宗(創作)バージョンもあったりします。迷った挙句にこっちに。→(だてさな編